六 ひたいの距離
朝、借り受けている屋敷の一部屋で、古い鏡台の前に座って身支度を整える。
皇修館に通い始めて二週間。紗蓉子は皇女宮を出て、なんでも自分でやることがようやく身についてきた。でもこの、肩を過ぎて伸ばした髪の毛のくせだけは、どうしても直すのに慣れない。
もともと皇女宮にいたころから、この髪は悩みの種だった。皇女は公務を行うことはなく、人前にもめったに姿を現す機会がない。けれど、宮中の公開されない行事、儀式に参加するときには、装束を身に着け、御髪も綺麗に整える必要がある。
その時にこの、ゆるく毛先を中心に波打つ癖毛は、いつも紗蓉子を困らせた。女官たちが丁寧に整えても、おくれ毛はいつもくるくる丸まっていた。
大きくなったら直る、髪を切ったら直ると言われ続け、結局十五の歳までこのままだった。紗蓉子は学校に通い始めてから、もう開き直って、髪はよほど乱れていなければよしとして元気に通っている。
その髪を、「はしたない」といって皇女宮からついてきた女官はいい顔をしない。
彼女、揖保川ユラは、母である皇后陛下の代から皇宮に努めているなじみのある人物だった。皇后陛下が臨終の際に、ユラに紗蓉子の養育を託したと伝えられているが、決まりに厳しく、些細なぬけや間違いも許さない彼女の指導は、皇女宮で暮らす紗蓉子をさらに委縮させた。
「はしたない」という言葉、嫌いだった。そう言われてしまったら、紗蓉子はすべてあきらめなくてはいけない。
先日、身元不明のものたちに追われた件について、紗蓉子はユラにすべて話し、学校、警察にも連絡済みである。
わりと事は大きくなっていて、皇修館はしばらく徒歩通学のものを途中まで送る乗合の馬車を出すことになった。
ユラはその日、長時間電話を使っていろいろなところへ連絡をしていた。その結果、紗蓉子はこの学校通いが終わり、近いうちに皇女宮に連れ帰られることをすこしだけ予想した。
しかし、結局紗蓉子は今も皇修館に通えている。どのように事が運んだのか、訊いてもユラが教えてくれるとは思えなかったので紗蓉子は詳細をたしかめていない。
翌日の新聞で、坂川の船頭が喧嘩の末、数人の負傷者を出したと知った。喧嘩の相手については身元不明としか言及がなかったが、喧嘩をした人たちに死人が出なくてよかったとほっとした。
「日野紗蓉子はいるか」
その日の午前中の業間に、鹿嶋が中等部の紗蓉子の教室を訪ねてくる。
学齢で言えばたった二年しか違わないのに、中等部のなかにいると鹿嶋はひと際大きく見える。すぐに紗蓉子が出ていくと、「これ」と、一冊の本を手渡される。
「わあ、ありがとうございます」
「ちゃんと読め。いいな」
「はい」
用事はそれだけで、一切無駄なことはせず、鹿嶋はすぐに帰っていった。
「紗蓉子さま、今の佐治さまではなくて?」
鏡子が鹿嶋を見やりながら聞いてくる。
「はい、猫の注意書きをいただきました」
「猫? 紗蓉子さま、猫を飼われるの?」
「ええ……今の家で、飼えたらいいなと思って。事前に勉強しています。佐治さまお詳しいんです」
紗蓉子は街中を追い回された日をのぞけば、あれ以来、まいにち鹿嶋に許されて猫の集まる社に通っていた。
乗合の馬車は自宅の前まで行かず、途中で降りてしまう。
猫と一緒に遊べるおもちゃなどは、すぐに持って行った。しかし鹿嶋からすると、猫に対して何かと危なっかしいところが多いらしく、勉強しろと言われたのだ。そのための本を貸すから、この時間は教室にいろと指定を受けていた。
鹿嶋は、紗蓉子が社を訪ねた時にいつもいるとは限らない。最初からいて寝ているときもあるし、入れちがいで会うときもあう。猫と同じように、気ままに来ているようだ。
その日の放課が近くなり帰りじたくをしていると、すっと紗蓉子の机の横に人影が立った。見たこともない女生徒が、見下ろすようにしている。
「あの……」
何か御用でしょうか、と問いかけるより早く
「あなた、日野紗蓉子さま?」
「……はい」
「なんだか御髪が乱れていて、みっともない」
突然の罵倒に、紗蓉子はえっ、と声をあげると固まってしまった。
「それに、背も高くてはしたない。ごめんなさい、失礼だったかしら」
言いながら指の先ですくう彼女の髪は、艶もはりもあり、まっすぐに素直で美しい。ご令嬢の髪はかくあるべきなのかも、と紗蓉子は思わず見とれた。
「本当に失礼です。小槻さま」
一体なんの御用なのです? と口が回らずにいる紗蓉子の代わりに鏡子が割って入って来てくれた。
小槻と呼ばれた女生徒はしばらく鏡子とにらみ合っていたが、つっとあごを上げて行ってしまった。
「驚きました。初めてお会いする方でした」
それから紗蓉子はやっと言葉を発することができた。
「あの方、お隣のお教室ですもの。今日、ここに佐治さまがお見えになったから……確かめにいらしたのかも」
「わざわざ?」
「そう。紗蓉子さまにからんだのも、たぶん嫉妬です」
「嫉妬」
「一学年下の頃、あの方、佐治さまに直接お付き合いしてくださいって告げたんですって」
「……それは、面白い人ですね」
普段の鹿嶋を見る限り、そういう態度で迫ってくる女性に優しくしてくれるとは思えない。期待している人間は突き放すのだ。要するに、ひねくれている。
「そうでしょう? 紗蓉子さまがお世話になっている方にこう言うのもなんですが、どんなところがいいのかしら。佐治さまって」
——でもちょっとだけお気持ちがわかるところもある。
紗蓉子は学校を出る道すがら、小槻のことを思い出しながら思う。
皇修館に通う生徒の中で、結婚する相手を自由に選ぶことができるものはほとんどいない。
結婚とは、家と家との結びつきである。想う人がいても、望まぬ相手といつかは添わなくてはいけない。だから学生でいる間だけでも、自分から好きになったと思える人と一緒にいたいのかもしれない。
——私はどうだろうか。
愛も、恋も知らない。それがいつか得られるとも思えない。だけど誰かの妻になることだけが、自分の生きる道とは思いたくない。そうではなく、私一人の力で皇女宮からいつか旅発つ。そんな道はあるのだろうか。
その日は社に鹿嶋が先着していた。紗蓉子がこんにちはと言うと、いつも「よう」とか「ああ」とか、適当な返事が返ってくる。
今日はとのこの姿が見えなかった。紗蓉子は、初めてこの社に連れてきてくれた猫に、とのこと名前を付けていた。
赤みのない薄い茶色が、砥の粉色に似ているから。鹿嶋は、猫なんて飼い猫でないなら自由なもので、名を付けると情が湧くから、いなくなったときにわめくなと忠告した。だが、名づけそのものを止めはしなかった。
とのこがいないから、紗蓉子は別のよく会う猫のそばに寄って、その背をなでていた。鹿嶋のように大胆に抱き上げたりはできなかったが、猫のさわり方にもだいぶ余裕が見えている。
「佐治さま」
「何?」
「背が高いって良くないことですか、女にとって」
鹿嶋の顔を見ていたら思い出してしまった。小槻は別に鹿嶋の関係者ではないが、頭の中では彼と結びついている。
「なんだよ、やぶから棒だな」
自分でも鹿嶋にこうして話をする理由はわからない。
「はしたないと言われました。背が高いのを」
「確かに日野紗蓉子はでかいな」
でかいなんて言葉嫌い。はしたないという言葉はもっといや。
そういえばイスカも大変背が高い。彼女と同年代の男子と比べてもまだ高いように思う。それで男装もあんなに馴染むのだ。紗蓉子もここ一、二年で背が伸びたことは自覚していた。
大きくなってしまうのは家系なのかもしれない。家系の問題であれば、抗うことはできない。背が高いのをはしたないと言われては、どうすればいいのだろう。
鏡子は格好よくてうらやましいと言ってくれたけれど、そう思う人ばかりではないのは今日知った。
気が付くと、髪の毛を自分の指に巻き付けてしまう。髪のうねるのも嫌いなのに、これは紗蓉子のくせだった。いやな考え事をするときに出てくる。
「……背って、小さくなりませんよね」
「いや、ならないだろ。ちなみ俺は何年か前に、夏だけで十センチ背が伸びた」
なぜか自慢げだった。
「うそ」
「うそじゃない」
「……ヘチマみたいですね」
鹿嶋は少しぎょっとした顔をする。それがおかしくて、元気にはならないが、紗蓉子は笑ってしまう。
「ヘチマって、初めて言われた」
「私も人に使ったのは初めてです」
そういえば、鹿嶋も背が高いなあと、紗蓉子は隣に立つ男を見上げる。
「なに?」
「背が高くていいことって、何かありますか」
「高いところのものを取りやすい」
「それは生活の役に立つこと」
「えー……なんだよだめか。そうだ」
何か思いついたように、鹿嶋は手ぶりで紗蓉子に立つように示す。その通りに立ち上がると、いきなり顔を寄せてくる。
「俺と話すとき、顔が近い」
「えっ……と」
額が振れそうな距離。ああ、この人は白目が青に近い白なのだと思う間もなく、
「だめ? 俺は好きだけど」
鹿嶋が追い打ちをかける。
「あ、あの、私今日はもう帰ります。本を読んだら、猫のおやつを用意したいし!」
そう、と言ってなんでもない顔ですぐに鹿嶋は離れる。
紗蓉子はその日、走って帰り、息を弾ませるその姿にまたユラにはしたないと叱られた。鏡子が佐治の良さがわからないと言ったとき、すぐには返事ができなかった。そしてさっきも、怒られるとわかっていて走らずにはいられなかった。振り回されている。佐治鹿嶋に。
その夜、紗蓉子の髪を梳きながら、ユラは今日の紗蓉子の姿についてずっとくどくどとお説教していた。もうそのほとんどを聞き流すことができるようになっていたが、言葉の切れ目でふと訊いてみた。
「ユラさん、背が高いことも、はしたないこととなりますか」
ユラの手が止まる。鏡の中の彼女の表情がこわばったのを感じ取る。
「どなたがそのようなことを……」
「誰かに言われたわけではなくて……そう思う人もいると、今日知りました」
あわてて紗蓉子は言いつくろう。発言を大きく問題にしたいわけではない。
「背丈など、あとから望んでも手に入るものではありません」
ユラはすぐに髪の手入れを再開する。
「世の中の価値観など、あっという間に変わります。持てるものは、大事になさい」
いずれにしろ紗蓉子さまがお気になさることではありません。と、事務的に素早く作業を終えると、それではとユラは部屋から出て行った。
きっとユラにも「はしたない」と言われると思ったのに、拍子抜けしてしまう。
手首の上に垂れる髪を持ち上げる。あんなに梳かしてもらったのに、まだ波打っている。この髪を、誰かが「きれいだ」と言ってくれる日が来るだろうか。
「お前なあ、それはだめだろ」
葛城一陽は、翌日カシマから、昨日紗蓉子に何をしたかを聞かされていた。紗蓉子がそのあとすぐに帰ってしまって、自分はまずかっただろうかと聞かれて答えたのがこの発言だ。
「だめだったか? 話すときあんまり小さいと下ばっかり向くから疲れるんだよ。あいつくらいがちょうどいい」
何も考えていなかったなこいつ、と葛城は紗蓉子に同情すら覚える。
考えてみれば、鹿嶋のことが気になると公言する令嬢たちも、みな鹿嶋にああしてもらった、こうしてもらったと、気になり始めたきっかけをちゃんと持っているのだ。問題は、やった本人がそれをなにひとつ覚えていないことにある。
「……俺は今まで、なんでお前のことが好きと言う女生徒が小数とはいえ途切れないのか疑問だったんだか、今その謎が解けた気がする」
「何?」
「そういうことをいろんなところでやっているわけだな」
「そういうことって?」
「そういうことだよ!」
「別に……誰にでもやるわけじゃない」
「へえ」
「優しくされることを期待しているやつには、してやらないよ」
当たり前だろといって、鹿嶋はまた教室を出て、どこかへ行ってしまう。