7.差し伸べられた手
お迎えに来たのは再びジョシュアさんだった。
申し訳程度ではあるが、アンさんとソフィさんに整えられたお呼ばれスタイルの私に彼は一瞥をくれたあと、「では参りましょうか」と事も無げに踵を返す。及第点とでも言いたげなその態度に乙女心が微かな苛立ちを訴えるが、今はそれどころじゃないと言葉を飲み込む。それに、私は、いい大人ですし。
それ以降も彼は特に会話もなく、城の廊下を先導するのみだった。その背中はやはり何を考えているのか掴めない。
そうやって彼の後に続いて通されたのは、これまでとは少し趣の異なる広間だった。広く、静かで、差し込む陽光はどこか柔らかい。室内には小さな円卓が一つ置かれ、そこでは一人の女性が優雅にティーカップを傾けていた。
紺色を基調としたシックなドレスに、淡く波打つ銀糸の髪。上品に微笑んだその顔には、どこか底の読めない聡明さがある気がした。
「まずはおかけになって?」
鈴のような声で彼女は言う。言われた通りに席に着くと、彼女はまたふわりと笑った。
「お初にお目にかかるわね、リラさん。王太子エドワードの妻、シャーロット・エルレインと申しますわ。わたくし、貴女とお話するの楽しみにしていたのよ?」
そうして彼女は、あまりにあっさりと、まるで友人にでも会うような軽い調子で私に手を差し伸べたのだった。
「リラ・タカミヤと申します。王太子妃殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう……」
慣れない言葉遣いで頭を下げようとする私を殿下は軽く手を挙げて制する。
「堅苦しい挨拶は不要ですわ。今日は公式な場ではございませんもの。それにわたくし、貴女とお友達になりたいと思っていますの。ねえ、リラさん」
そう言って殿下はスっとこちらを見据える。猫のような大きな瞳が僅かに細められ、それは私の腹の底を探っている様でもあった。
背筋を伝う緊張感。指の先から冷えて行く様な。彼女の表情も声色も柔らかいのに、その視線は獲物を見定めた強者のそれ。ああ、やりづらい。
きっと、この人は本気で私と“友達になりたい”と思っているわけじゃない。額面通りに受け取ってはいけない。
けれど、その実提案自体は悪いものでもない。彼女は私、或いは魔女に興味があり、私は生活の安寧のために多くの”味方”が欲しい。その関係性を友達と呼ぶのは悪い話じゃない、と思う。
「……光栄です、妃殿下。私のような人間に、そんな風に言って頂けるなんて」
「あら、謙遜が過ぎますわよ、リラさん。わたくし、こう見えて事情通ですもの。貴女のお噂は幾度となく、わたくしの耳にも入っておりますわ」
シャーロット妃はカップを傾け、微笑みのまま続けた。
「召喚されたその日から、従順に見せかけて突如反抗的に。侍女を言い負かし、王太子に直談判。そして今や、魔導師団の副団長を専属護衛につけているとか。とても立ち回りがお上手なのね。まるで王宮に嵐を呼び込んだようだと、皆仰っていてよ」
「……私の部屋は、あまり風通しが良くありませんでしたから。少し、換気をしたまでです」
皮肉交じりに返せば、シャーロット妃はくすくすと喉を鳴らして笑った。
「ええ。王宮にも換気と掃除は必要ですもの。特に最近は少し、空気が淀んでいますしね……。ところで、リラさん。件の怪文書について、なにかご存じかしら?」
彼女は少し意味深に呟いた後、唐突に話題を変える。来た。やはり本題は例の怪文書のこと。ジョシュアさんの言っていた通りだ。やっぱり、楽しい話題ではない。
けれど、どう答えたものか。ジョシュアさんは、妃殿下は味方だと言っていたけど、その話に確たる証拠があるわけでもない。彼女と差出人がグルで、私に探りを入れている可能性だってないとは言い切れないのだ。昨日の王太子殿下の態度から鑑みるにその妃であるシャーロット妃が差出人と通じている可能性は低いとは思うのだけど。どちらにせよ、言葉は慎重に選ばなくてはいけない。
「いえ。私はこの世界に来て間もないのです。私が知り得ることなど、たかが知れているでしょう。私は、ただ偶然にも封蝋に刻まれた紋様が王家のものに酷似していると気づいただけに過ぎません」
「ええ、そうですわね。ですが――」
妃殿下の声が一段低くなる。
「王家の蝋印が使える人物は、限られていますわ。当然、それを使うことが許されるのは王家に名を連ねる者のみ」
心なしか、あの優雅な声に冷気が混ざった気がした。
「貴女も気付いているのでしょう? あれは偽物ではなく、正式な王家の封を用いて届けられたもの。これは王族内部の問題に繋がることなのです。だからわたくし、貴女に警告……いいえ、お願いに来ましたの」
「お願い?」
「ええ。何があっても、貴女は“口を噤む”こと。もしあの手紙について、誰かに問われても、それは“知らなかった”と言い続けて。……その方が、貴女の身のためですわ」
その一言に、私の背筋が僅かに粟立った。
「それは、これ以上の詮索は無用、ということでしょうか?」
「いいえ。わたくしは、忠告を差し上げただけ。……けれど、同時に申し上げておきますわ。貴女がこの王宮で生き残りたいのなら、わたくしは力になります」
シャーロット妃の瞳が、ふと柔らかくなる。
「貴女は、道具として呼ばれた。でも、決してそれだけの存在じゃない。わたくしはそう信じています。だから……貴女もわたくしを“利用”なさい」
「……随分と、率直に仰るんですね」
「ええ。貴女はこちらの方がお好みでしょう?」
シャーロット妃はそう言って、優雅に紅茶を口にした。
「それで、どうなさいます? リラさん。貴女は、わたくしと友達になってくれる?」
その声はあくまで柔らかく、でもまるで試すような鋭さを内包していた。ああ、やっぱりやりにくい。私の立場は、この一言で決するのだろう。その力が、この方にはあるのだと確信できる。
私は、答えを返す前に、一度ゆっくりと深呼吸をした。
「はい。友達と呼んでいただけるのなら、喜んで」
私がそう答えると、シャーロット妃の微笑みはほんの少しだけ深くなった気がした。