10.優雅な規律と憂鬱な招待
全身が悲鳴を上げている。今まで使った事の無い筋肉が私の怠惰を痛みという形で主張する。人生で一番身体を使っているとさえ思えた。
緊張のお茶会から数日。驚くほど迅速に手配された講師は、強豪校のコーチ張りのスパルタで私にこの国の上流階級におけるマナーと教養を骨の髄まで叩き込んでいた。血反吐を履く様な、は少々言い過ぎかもしれないがなかなかにハードな詰め込み講習。あの講師はきっと紅茶を嗜むより、教え子の生き血を啜る方がお好きなんじゃなかろうかと思ったくらいだ。
ティーカップを持つ角度、口に運ぶまでの姿勢、お辞儀の角度、視線の運び方に至るまで。曰く、「淑女は行動の全てが発言となる」と。ビジネスマナーが関の山な現代庶民こと私には知る由もなかったであろう世界だ。
貴族とは大変である。些細な言動からも揚げ足を取られ、あることないこと騒ぎ立てられてしまうのだろう。恐ろしい社会だ。果たして私はそんな戦場に放り込まれて生きて帰れるのやら……。
そんな私に一応の合格が出たのは、そろそろ腕が千切れ、背筋がお釈迦になると思い始めた時だった。
「まあ、及第点ですわね」
それは定例となっていたシャーロット妃とのお茶会でのこと。毎度講習の後お茶を嗜み、貴族らしい会話に花を咲かせる。無論、その中で私の一挙手一投足は事細かにチェックされているわけだが。要は実践訓練である。そんなお茶会のさなか、優雅な仕草でティーカップを置いたシャーロット妃は言う。
ここからが本題だ、と言外に示すシャーロット妃に倣って私もティーカップをソーサーに戻す。音を立てないようになるまで何度も繰り返した作業だった。
こうして講習を積んで改めて、彼女のその洗練された所作が一朝一夕のものではないとわかる。果たして私がその境地に至るのに、何十年の歳月が必要なのか。全く見当すらつかないが。
「貴女に招待状が届いていますわ。噂の魔女様をお招きして、ぜひ交友を深めたいと」
シャーロット妃の合図に彼女に付き従っていた影のような侍女が銀盆に乗せて差し出したのは一度封の開けられた手紙だった。
「拝見しても?」
私の問いに彼女は無言で肯定する。受け取った手紙に踊っていたのは今となっては少し懐かしい筆跡だった。
以前、私に宛てられた手紙ではお上品に罵詈雑言を綴っていたその筆跡の主は、今度は丁寧な言葉で"お義姉様"に宛てて魔女に会わせろと申し立てていた。
「貴女が講義をきちんと受けているのであれば、その手紙の主がどなたであるかはもう理解していますわね?」
試すような視線のシャーロット妃を前に私は小さく頷く。講習には座学ももちろん含まれていた。つまりはこの国の歴史と、貴族やそれに連なる者の顔と名前。数年ぶりに世界史の授業を受けたような感覚に陥りながら、それらを必死で頭に叩き込んだものだ。自分の物覚えの良さにこれほど感謝したのは大学入試以来だろう。
尤も、時間の都合によりその内容は要点だけに絞られていた様だけど。
それでも手紙の主はしっかりと講習科目に含まれていた。当然である。なんと言っても彼女はこの国の――
「第一王女、マリアンヌ殿下ですね」
「ええ、その通り。これは、エドワード殿下の妹君、マリアンヌ様からわたくしと、貴女へ宛てた招待状ですわ」
ああ、嫌な話だ。第一王女殿下は魔女がお嫌いな様だし、こうしてシャーロット殿下を介して私に招待を送ってくる辺り、その目的は明々白々である。要は、怪文書にも嫌がらせにも全く堪える様子のない私に、直接手を下すことにしたのだろう。
「最初は、お断りしようかとも思いましたの。けれど、リラさんは淑女教育も順調のようですし、貴女もやられっぱなしでは腹の虫が収まらないでしょう?」
優雅に微笑むシャーロット殿下はこの僅か数日で私のことをよく理解していらっしゃる。私はどこまでも彼女の手のひらの上ということか。しかし、一点気がかりなこともある。
「シャーロット殿下は、マリアンヌ殿下の私に対する行いについて口を噤むことをお望みではなかったのですか?」
そう。それは彼女と初めに会った時に言われた言葉。この件に関しては深入りをしないように、と厳命されていた。だから私も第一王女についてはカタログスペック以外は詮索しないようにしていたのだ。それが、実際に会うことになるとはどういう風の吹き回しだろうか。
「わたくしも、当初はそのつもりでしたのよ? でも、殿下は少しご自分の目的達成に固執する節がありますもの。あちらがそのおつもりなら、こちらも相応のお返しをせねばならないでしょう?」
なるほど。向こうが正々堂々こちらに剣を向けてきたから、私にも抜刀許可が出たということか。せっかくシャーロット妃が穏便に済ませようとしていたのに、あちらさんは意地でも私に一泡吹かせなければ気が済まないんだろう。ああ、気が重い。
「確かに、王女殿下には色々と御恩がありますし、お返ししなければ失礼に当たるかもしれませんね……」
出来れば、勝手に自滅してくれる方が私としてはありがたいのだけど。それでもこうして名指しで刃を向けられたからには、無視して通る訳には行かないだろう。
「ええ。そうでしょう? だからリラさん、思う存分その恩をお返しして差し上げるといいわ。それからわたくしは今回、静観させていただきますわ」
わたくしが手を貸しては招待を受けた意味が無いでしょう?とシャーロット妃は穏やかに微笑む。つまり、己の力だけで立てることを示せ、ということらしい。はあ、腹括るしかないみたいね。
「お気遣い、ありがとうございます。そのご招待、謹んでお受けいたしますと、王女殿下にお伝えください」
「ええ。しっかりとお伝えしておきますわ」
満足そうなシャーロット妃と反する様に憂鬱な私。当初の「魔女は大人しく」に従った私の悠々自適な軟禁生活は早くも終わりを告げているような気がして、私はひっそりとため息を零した。




