旦那さまと神さま
三人称単元に変更しました。
神さま、今日わたしは奴隷として売られます。
大丈夫です。二度目だからもう、怖くはありません。
旦那さまに教わった知識があるから。
いつも見守ってくださる神さまに、感謝を。
祠の前で手を合わせながら、そう凪は祈りを捧げた。
すると祈りを捧げると決まって聞こえる声が、祠の辺りからいくつも聞こえる。
『ドレイ? それ楽しいの?』
『オマエハ アゲナイ』
『その腕の紐、なんのアソビ〜?』
『無理はするんじゃナイよ』
「ふふ、遊びじゃありませんよ」
神さまとするたわいもない会話に、思わず顔が綻ぶ。
命をやりとりするような会話のあとだから余計にそう思えた。
あれから凪を牢屋に入れた使用人たちの中から、唯一優しい声をかけてくれる人が現れた。
以前に永臣の部屋子をしていた玉緒だ。
「本当はあなたのことを殺してしまおうかなんて話も出ていたんだけど、奴隷として売ることで手打ちになったよ。せっかく周藤家に買われたんだ。死なせてしまうのは可哀想だからね」
「玉緒さん……ありがとうございます」
「奴隷なら今と同じだ。旦那さまに牙を向けたあなたを周藤家には置いておけないけれど、他の家に行っても元気でやりなね」
永臣に牙を向いたわけではないが、凪のせいで神さまが力を使って、永臣を倒れさせたことは事実だ。
「はい!」
こうして凪は再び奴隷として売られることになった。
凪を買ったお金を、凪を売ったお金で補填する。
元の形に戻るだけ。
不満はない。
きっとどこでだってやっていける。
そう思えるから。
(わたしに読み書きと作法を教えてくれた旦那さまに感謝を)
凪が屋敷を出てから、永臣が目覚めたと神さまが教えてくれた。
以前は願いを言っては駄目と言われていたから、なんとなく聞くことも躊躇われたけれども、今は聞けばなんでも教えてくれる。
凪の妖力を代償に、旦那さまに書状を届けることも。
主上から預かった大切な書状。
誰の手にも渡すなと仰せつかっていたから、永臣が目覚めていない状態では渡すことができなかった。
神さまのお陰で無事お届けすることができて、凪は本当に良かったと安堵していた。
これで後顧の憂いはない。奴隷市で胸を張って前を向く。
「さぁさ、お立ち合い! ここにおりますは、今流行りの女奴隷! まもなく競りの始まりだよ〜」
以前とは違い屋根がある薄暗い部屋の中で、軽快な奴隷商の声が木霊した。
声がかかってすぐに一人の男が立ち上がり、まっすぐ凪の前まで来る。
「ぁ、あなたは……」
「また会えたな」
* * * * *
「どういうことだ?」
目覚めた永臣は、真っ先に違和感を感じた。
妖力が元に戻っており、妖との繋がりもない。
それどころか凪の気配もなくなっていた。
身体の怠さは嘘のようになくなっているのに、寒気を覚えるほどの喪失感に襲われた。
「旦那さま、お目覚めになられて何よりでございます」
涙すら浮かべて喜んでくれる使用人に苛立ちすら覚えながら、永臣はもう一度尋ねた。
「凪がいないとは、どういうことだ? いつも彼女の周りにいた妖の姿も見えない」
「あ……――」
言いづらいことがあるとばかりに目を泳がせる使用人に、今度は掴みかかるまでした。
「教えてくれ! 凪はどうしたんだ!?」
もうなり振りなんて構っていられなかった。
ただ凪の行方を知りたい。
遠くへ行ったなら、連れ戻したい。
子どものわがままのように、使用人に縋り付いた。
普段は見せない永臣の様子に、使用人も困ったように目を伏せる。
「彼女は出て行きました。旦那さまが倒れたのは自分のせいだと」
側にいる妖に目をやると、静かに首を振った。
すぐにこの使用人が嘘をついていることが分かる。
「分かった。他の者を呼べ。私が寝ている間に何があったか、詳しく聞こう」
身支度を整え、一刻も早く部屋を出る。
何かがあったことは間違いがない。
絶望している時間すら惜しかった。
そこに見慣れた案内役が涙を湛えながら、縋りついてきた。
「案次郎? 何があった」
「ぅ、ぐすっ。旦那さま〜」
案次郎は幼い頃から面倒を見ているためか、弟のような気安さがある。
それにしても今日はいつになく狼狽していた。
鼻水をすすりながら案次郎が話してくれる内容に、永臣は戦慄を禁じ得なかった。
「凪が奴隷になっただと!?」
「はいぃぃ。旦那さま、凪さんをお助けくださいまし」
「無論だ。連れ戻しに行く。案次郎はみなの誤解を解いて回れ。あれは賊の仕業だ、凪は悪くない、と」
「はい!! 旦那さまのお言葉なら、みな信じてくれます!」
パッと表情を明るくした案次郎は涙を拭い、パタパタと部屋を去っていった。
永臣もすぐに仕度をして屋敷を出ようとすると、肌がピリピリするほどの妖気を感じて足を止めた。
そこには見慣れた高い耳に、ふさふさの九つの尻尾。
強い妖気の割りに可愛らしい見た目の妖狐が、口に書状を咥えて佇んでいる。
そして隣にはまだ小さな狐。
よく考えれば、神格化した妖狐を人間ごときが制御できようはずもないと、今なら分かる。
妖狐と目が合うと、軒先までゆっくり歩み、書状を口から下ろした。
永臣は書状に目を通すのもそこそこに懐にしまい、妖狐が去るよりも早く声をかけた。
「私と離れることが凪のためだとでも、思っているのか」
この妖狐は常に凪と共にいた妖だ。
その中でも特に強力な力を持つ厄介な妖。
あまりの強力さに、凪が妖力を吸い尽くされてしまうのではないかと危惧した。
だから自らの妖力を削ってでも、この妖を従えようとした。
――はずだった。
この妖は凪が従えているわけでもないのに、凪の感情に合わせて力を放出した。
凪を守るように。
(私の考えが間違っていたのかもしれない)
これまで妖は人の妖気を吸い、災いを齎すモノとして、滅するか、従えるかしてきた。
しかし凪の周りの妖はみな穏やかな顔をしていた。
誰にも危害を加えようとはしない。
凪が無事ならば――。
だから今も凪を守ろうとしているのではないか。
そう考えた。
「凪は狙われているぞ。そなたでは滅されることはなくとも、凪を守れまい」
妖は虚な存在だ。
暴れることはできても、繊細な術は使えない。
その点、妖術士は人が妖から人を守るために編み出した術だ。
守ることが本質。
妖狐はジッと永臣を見つめ、歯を見せてフーッと息を吐き出した。
『ソナタなら凪を守れるか』
そう言われた気がした。
心は決まっている。
「私が凪を守ると誓おう。代償は妖狐、そなたの協力だ。凪のところまで案内してくれ」
永臣とこの妖狐との繋がりができれば、妖狐へ送る妖力は凪と半分ずつになる。
これで凪の妖力が尽きることもないだろう。
ただ妖との契約には、代償を伴う。
願いと代償が釣り合っていなければ、聞き入れてもらえないばかりか、食われることさえある。
永臣は目を逸らさずに、ジッと妖狐の返事を待った。
すると妖狐はくるりと後ろを向いて、顔だけでこちらを振り返る。
「ついてこい、ということだな」
永臣は口角が上がるのと同時に、空を飛ぶための印を組み始めた。
* * * * *
「そなたに会いたかったぞ」
一度目に奴隷として売られた時に、最初に凪を買おうとした男だ。
奴隷のどこかが欠けてもいいか聞いていたような、残忍な印象しかない。
「これはこれは後藤さま、その奴隷をお気に召しましたでしょうか」
奴隷商は揉手で後藤と呼ばれた男に擦り寄ってくる。
一度目のときも同じように、なんでも受け入れてしまいそうな雰囲気だったことを思い出し、嫌な予感がした。
「ああ。この娘を私に」
後藤が従者に目配せすると、従者は懐からジャラリと重そうな音がする袋を取り出して奴隷商に渡した。
「おほっ、こんなに宜しいので!?」
「ああ、いいから早く手続きを済ませろ」
後藤が促すと、奴隷商はほくほくした顔をしてサッサと凪を売り渡す手続きをしてしまった。
「これでそなたは私のものだ」
後藤が凪の手にかかる縄を解く。
手は軽くなり拘束もなくなったけれど、少しも心は安堵できない。
手を掴まれ、引き寄せられる。
顔近くまで後藤の鼻先が来て、思わず俯いてギュッと目を瞑った。
「私は少々鼻が良くてね。この間従えていた妖はどこにいる?」
そう言いながら後藤は凪に顔を近づけて鼻をすんすんさせた。
この間従えていた妖……?
誰のことを言っているのか分からずに、恐る恐る言い返す。
「わたしは妖を従えていたことなど、ありません」
「嘘を言うんじゃない! 私には分かるのだよ」
腕を強く掴まれ、肩を強引に揺さぶられるも、分からないものは分からない。
その時、外から馬の蹄の音が聞こえた。
一度目のときと同じだ。
けれど、期待してはいけない。
今度は永臣であるはずがない。
ついさっき目を覚ましたと神さまから聞いたばかりなのだから。
粗末な引き戸がスーッと滑らかに開いた。
人物の影が逆光に照らし出される。
顔は見えないけれど、今なら妖気で誰だか分かる。
「旦那さま……!」
「ふふははは、一足遅かったですな、周藤殿。この娘は今し方私が買ったところです」
後藤が下卑た笑みを浮かべ、勝ち誇ったような目で永臣を見る。
確かに先ほど凪は後藤に買われてしまった。
いくら永臣といえど、売買を覆すことなどできるはずがない。
けれども永臣はそれを歯牙にもかけず、手に持つ書状を広げた。
「奴隷売買は主上の意向で禁止された。今頃ふれが出ているはずだ。よってそなたらの奴隷売買は無効だ」
書状には「奴隷廃止」とだけ、書かれていた。
遠くの方から「ごうがーい! 奴隷禁止令発令ー!」という声が聞こえてくる。
ここは町外れの廃れかけた小屋。
町外れの森の中よりは町中に近づいたが、御触れが出る場所からはかなり離れている。
時間がかかったのも頷ける。
「わ、私の奴隷……」
「彼女を解放しろ。彼女は奴隷などではない」
胸が打ち震えた。
それは欲しかった言葉。
(旦那さまのもとに帰りたい。 けれども旦那さまはきっとまた力を……)
「凪、帰るぞ。もう大丈夫だ」
血色のいい顔。
力強く伸ばされた腕。
その手を掴みたい気持ちが溢れる。
しかしまだ心配な気持ちが収まらない。
「わたしのせいでまた旦那さまがお倒れになるのなら、帰れません」
押し殺した気持ちが溢れ出ないように、ギュッと両手を握って抑えた。
「それなら私の元へ来るが良い。周藤殿に苦労はかけなくて済むぞ」
「有難いお申し出ですが、結構です」
凪は頭を下げて丁重にお断りした。
後藤の奴隷は代償を捧げてでも遠慮したい。
永臣は帰れないと言った凪にも、手を下げることはしなかった。
いつでも凪を求めてくれるその手を出したまま……。
「安心するがよい。そなたの神にはもう手出しはせぬ。だからもう倒れることもあるまい」
「まことでございますか」
手出しははしないということは、神さまも永臣の妖力を奪わないということ。
永臣がやつれる原因もないということ。
「本当に非らず人のわたしがお側にいても、宜しいのですか……」
「私はそなたにいてほしい」
涙が溢れ出すと、もう気持ちを抑えることができなかった。
「はい。わたしも旦那さまのお側にいたいです」
凪はその力強い手を取り、奴隷市を後にした。
その日凪は初めて空を飛んだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます(*´ー`*)
この作品は鳴田るな先生主催の【身分違いの二人企画】に参加させていただいたものです。
他の作品もキーワード「身分違いの二人企画」で検索すると読むことができます♪
この作品の感想もお待ちしています!
短編で書ききれなかった凪の名字にピンと来た方は、ぜひ感想欄でコメントください。※他作品は関係ありません