神さまと妖
神さま、わたしはなんということをしてしまったのでしょう。
そう祈りを捧げながら、凪の頭には後悔ばかりがのぼっていた。
熱が出たからと言って、美しくも高貴な主人に看病される奴隷がどこにいるのか。
(しかもあまつさえあんな……)
天上の君に抱き止められた腕の感触を思い出して、再び熱が上った気がした。
「ここにいたのか」
「ヒェッ」
タイミングの悪さに思わず変な声が出てしまった。
「だ、旦那さま」
悪いことをしていたわけではないのに、狼狽えてしまう。
部屋から抜け出しはしたが、部屋の前の祠に出ただけでは咎められないはずだ。
けれども薄らと目の下に隈を拵えた永臣を見ると、罪悪感が込み上げてくる。
「昨日は看病していただき、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げると、昨夜と同じ優しげな声と共に頭を撫でられた。
「熱は下がったようで、何よりだ」
凪は違う意味で熱が上がりそうだと思った……。
「祠で何をしていたのだ?」
「祈りを捧げるのが習慣なのでございます」
「祈りを?」
「はい。幼い頃、母に教えてもらいました」
『母さま、あのね、変な声が聞こえるの』
まだ凪が幼い頃、初めて祠で神さまの声を聞いたときのこと。
幼い凪はちょっとの好奇心とちょっぴりの恐怖心で、母に尋ねた。
『あらあら、神さまの声でも聞こえた?』
『神さまなの? あのね、いろんな声が聞こえるのよ』
『ふふふ、そうなの。怖くはない?』
『ううん! ぜんぜん怖くないよ! お話しできて、たのしい!』
『そう。よかった』
いつもの優しい笑顔をくれた母を見て、怖いことなんてないとすぐに頷けた。
でもそのすぐあとの真剣な母の言葉は、幼い凪を竦ませた。
――でもね、神さまには、決してお願いはしてはいけないよ。
それからは神さまから願いを求められても断り、例え母の死を前にしても願いを言うことはできなかった。
* * * * *
懐かしい母との思い出が浮かび、口元が綻ぶ。
凪にとって、随分前に亡くなった母との大事な思い出だ。
「大切な習慣なのだな」
「はい」
理解してもらえた嬉しさに破顔すると、永臣も祠の前にしゃがみこんだ。
「作法などはあるのか?」
「……旦那さまもされるのですか?」
「む、駄目か?」
「い……いいえ」
主人とは奴隷に命令する立場で、奴隷は主人に従うものだと思っていた。
それが奴隷に従う主人がいるのだろうか。
……目の前にいるのだが。
断ることもできずに、手を合わせることと、お願いはしないことだけを伝えると、永臣は黙って手を合わせた。
「…………あれ?」
「どうした?」
「いつもは聞こえる声が……」
凪は途中まで言って口を押さえた。
祠で声が聞こえるなんて、誰が信じるのか。
今まで笑ったり可哀想な目で見てこなかったのは、母くらいなものだ。
「ああ、いつもは声が聞こえるのか」
「えっ」
すんなり信じたような反応に面食らう。
けれどもそんな間もなく、声が聞こえてきた。
『生きテたー』
『オマエト ハナレナイ』
『今日は二人なのね』
「わ、神さま。いらしたのですね」
いつもの祈りと同じように神さまとお話しすることができるようになっていた。
さっき声が聞こえなかったのは、たまたま……だなんてどうしても思えない。
永臣が「いつもは声が聞こえるのか」と言ってから、神さまの声が聞こえるようになった。
(旦那さまが何かしたのかしら?)
「旦那さまは一体……」
「病み上がりに外の風は冷える。中で少し話そう」
促されるまま隣の部屋に入ると、壁には妖怪の掛け軸が。
呪具のようなものまで飾られていて、なんだかきな臭い雰囲気を感じる。
「私は代々主上に仕える公家である周藤家の当主だ」
主上とはこの国で一番偉いお方だ。
和尚さんは、主上は神さまだと言っていた。
しかも凪がいつもお話ししている神さまとは違って、滅多に会うことはできない最も高貴なお方。
そのお方にお仕えする永臣も、とんでもなく偉いお方なはず。
そんな偉い方に昨日したことを思い出し、魂が抜けそうになった。
「我が家は妖の力を使い、主上をお守りするのが役目だ」
その昔主上が国を興したとき、妖の力で主上を助けたことから、今の形になったと永臣は説明してくれた。
でもそこよりも……。
「妖……ですか?」
不穏な存在の名を聞き、ゴクリと息を飲んだ。
奴隷市で言われたことを思い出して、鳴りを潜めた不安が顔を出す。
――かわいそうに。私に買われていた方がまだマシだったな。あの方は有名な妖術士のお方だ。毎夜妖に女を食わせては力を得ているという噂だぞ。ククク。
凪を買おうとしていた男に去り際に言われた言葉だ。
けれども妖に食わせるなら、昨夜のうちにやっていたはずだ。
永臣はそんなことをする人ではないと、凪は不安を隅に追いやった。
「先日馬で空を駆けたのもその力によるものだ」
不思議な能力が使えるのも、妖の力によるものだと説明されれば納得できた。
ではもしかしてさっきの神さまの声も……?
「さっき祠でお祈りをするときも、何かお力を使われたのですか?」
「力というほどではない。妖にそなたの妖力を吸われないよう離れていてもらっただけだ」
つまり永臣にとっては、神さまは妖なのだろう。
妖の力を使えるのだから、ある程度従わせることもできるのかもしれない。
それにしても妖が人の妖力を吸うなんてことは、凪は聞いたことがなかった。
「旦那さまも妖の声が聞こえるのですか?」
「いや、私は妖が見える」
「見えるのですか」
「そうだ。妖を見る能力は周藤家だけが持ち得る能力だ」
妖が見えるのなら、凪が神さまの声が聞けるのを信じるのも頷ける。
それから妖の力を使う公家は、周藤家・藤澤家・後藤家の御三家のみだったとか、藤澤家は衰退したなどと説明してくれたけれど、情報の多さに混乱気味で頭に入ってこなかった。
母は神さまと言っていた存在を、永臣は妖と言う。
神さまの声が聞こえる凪と、妖が見える永臣。
でも永臣はこの国で二番目くらいに偉いお公家さまで、凪は奴隷。
そんなことをぼんやり考えていると、永臣から心配そうに声をかけられた。
「凪……。まだ病み上がりだ。今日は部屋でゆっくりとしているといい。私の部屋子となるのは、明日か明後日からにしよう」
「はい。…………は、え、部屋子でございますか?」
ぼんやりした勢いで頷いてから、遅れて理解した。
部屋子というのは永臣のお世話をする人のことだ。
普通身分の高い方のお世話は、もっと身分の高い方がするのではないだろうか。
買ったばかりの奴隷がお世話をして、万が一があっては大変だ。
「わたしで宜しいのですか? もっと位の高い方の方が相応しいのでは?」
「私はそなたに頼みたい」
なかなか飲み込めずにいると、永臣から逆に質問される。
「それともやりたい仕事や得意なことがあるのか?」
「…………それは……」
日々暮らすだけで精一杯だったのだ。
繕うくらいしかできない針仕事で、高貴な方のお役に立てるとは思えない。
薪を割るのなんて、和尚さんに呆れられるほど力不足だった。
森に入って山菜を取ってくるなんて、果たして永臣には必要なんだろうか。
もともと奴隷である凪は、主人である永臣には従うしかないのだ。
三つ指をついて、「謹んでお受けします」と頭を下げるしかなかった。
「うむ。宜しく頼む。何か不足があれば言ってくれ」
「はい。……あの」
「なんだ?」
「わたしは読み書きができないのですが……その、本当に宜しいのですか」
――非らず人
その呼び名がチラつく。
自分が読み書きもできない役立たずと蔑まれる存在だと、奴隷となって知った。
今まで優しくしてくれた永臣も、非らず人と分かれば態度を変えるかもしれない。
そんな心配が頭を過ぎる。
「なんだ、そんなことか。それなら私が教えよう」
凪の心の中でモヤモヤしていた不安は、一瞬のうちに拭い去られた。
もしかしたら非らず人と呼ぶのは、奴隷商だけなのかもしれない。
凪がその考えが甘いと知るのは、すぐあとのことだった。
あと3話で完結します。