神さまと月下の君
「凪……。逃げなさい」
寺の中に走ってきた和尚さんの法衣は、肩から赤銅色に染まり、額には玉のような汗を浮かべていた。
「和尚さん、早く手当を!」
「そんなことはいい!」
悲鳴のような凪の声を、和尚さんの怒鳴り声が塗りつぶす。
普段からは考えられない力で腕を引かれ、凪は裏戸の外へ放り出される。
戸には内側から関をはめた音がして、もう中には入れてくれないことを意味していた。
「早く逃げなさい。できるだけ……町の、方へ。……奴らに、捕まるッ……前に」
「和尚さん…………」
だんだんと下にずれていく和尚さんの弱々しい声に、もう助からないんだと悟った。
凪は溢れる涙を振り払い、踵を返して走り出した。
* * * * *
神さま、わたしは死ぬのでしょうか。
頭は割れるように痛くて、更に茹だりそうに熱い。
目を覚ますと、見たこともないお座敷の天井が見えた。
頬には涙が乾いた跡ができていて、とても怖い夢を見た気がする。
夜のようなのに、障子の向こうは月明かりが妙に明るかった。
そういえば雪の中で濡れたり、そのまま歩かされたりしたのだ。
熱くらい出してもおかしくはない。
ぬるくなった額の手拭いを手に取り、なんでこんな見たことないところに寝ているんだっけ、とぼんやり考えた。
汗ばんだ身体には着物が張り付き、寝乱れて気持ち悪い。
(なにか飲みたい……)
だるい体を起こすと、月明かりが照らす障子に人影が写った。
(誰か来る!?)
慌てて寝乱れた着物を直すと、手首の傷痕が目に映った。
それを見て凪は奴隷として買われたのだと思い出した。
主人のお屋敷に着くや否や、熱を出してそのまま倒れたのだ。
サーッと血の気が引いた。
奴隷が病にかかったら、どうなるのだろうか。
何日も寝込んでいては使い物にならないと捨てられるのでは?
――買った奴隷の扱いに縛りはあるか。例えばどこかが欠けたりしても……。
生きたまま使い物にならないなら、バラバラにされたりするのだろうか。
どうにも回らない頭でパニックを起こしながら、正座した。
「ん、起きたか? 入るぞ」
「はい」
障子が開くと眩しいほどの月明かりが部屋に差し込んでくる。
声の感じからして若い男性らしい。声の主が部屋に入るのを、土下座して待ち受ける。
「何をしている?」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。今はたまたまこんな状態ですが、身体は丈夫な方ですのですぐに良くなります。どうか……」
(五体満足のままでいさせてください!)
怪訝そうな声を上げた男性が誰かも分からずに、ただ愚直に頭を下げた。
奴隷となったのは初めてで、いい扱いをされないことだけは分かっている。
これ以上悪い扱いにならないためには、こうするしか思いつかない。
「面をあげよ」
畳に静かに桶と手拭いが置かれたと思ったら、肩を優しく持ち上げられた。
けれども一緒に持ち上がった頭はぐらぐらと揺れ、視界が傾く。
やはりこの熱では起き上がるのも無理があったようだ。
凪の体は畳には落ちずに、目の前の男性の腕の中に落ちた。
目眩が落ち着きパチパチと目を開けると、真っ先に桶と手拭いが視界に入った。
そこから顔を上げると、桶と手拭いとは不釣り合いな美しい容姿。
優雅な立ち居振る舞いから凪とは別の世界の人であることが分かる。
月から抜け出したような華奢な男性の腕は、思ったよりも力強い。
しっかりとした腕は乱暴なことは少しもせず、心配そうに長いまつ毛を伏せている。
絡み合った視線に、胸の音がトクトクと高鳴る。
きっと熱のせいだけではないだろう。
「大事ないか?」
「天上の君……」
「ぶふっ、なんだそれは」
凪を支えたまま、男性はきれいなお顔をくしゃりとさせて吹き出した。
横を向いて片手で口を押さえるも、吹き出した息は漏れてしまっている。
それも落ち着いた頃、天上の君は茶器にぬるめのお茶を入れてゆっくりと飲ませてくれた。
乾いていた喉が潤いで満たされる。
「ありがとうございます。奴隷を買われたお方ですよね? 空を飛んでこられた」
体を起こしてよく見てみると、奴隷市ですべての奴隷を買ったあの人だと確信した。
あのときほどの冷たい感じはしないが、誰もが魅了された美しさはあのときと変わらない。
「確かに私はそなたの主人だ。周藤永臣という。そなた名は?」
「わたしは凪です」
そう名乗る頃には、不安はすべて消えていた。
凪を抱く優しい手付きからは、ひどい扱いをされるなんて少しも想像できなかった。
天上の君は、凪を布団に寝かせ、ふわりと掛け布団をかけてくれた。
「無理はするものではない。ひどい熱だ」
額に手を当てて叱るその声音は優しい。
手拭いを絞って額に乗せられると、熱がひんやりと冷やされていく。
「あの……なんとお呼びすれば……」
「好きに呼べ」
好きに呼べとはいうけれど、きっと『天上の君』は駄目なんだろうことが想像できた。
さっきその呼び名を聞いて吹き出していたことを思い出す。
名前で呼ぶのも失礼じゃないだろうかとか、ご主人様というほど忠犬ではないとか、しばらく考えてからこれと思った呼び名で呼んでみる。
「では旦那さま」
「なんだ?」
すんなり返事が返ってきたところを見るに、事のほか違和感はなかったらしい。
「なぜ旦那さまのような身分の高いお方が看病してくださるのですか?」
ずっと疑問に思っていた。
あまりにも桶と手拭いが似合わないその手は、白くあかぎれ一つない。
手付きも慣れていそうには見えなかった。
この広いお屋敷の主人であれば、使用人がたくさんいるはずだ。
先日も後ろに護衛が四人はいた。
それでなくとも、奴隷をたくさん買っていたはず。
奴隷の面倒など奴隷同士で見させればいいのに、なぜ屋敷で一番偉い人がしているのが不思議でならなかった。
「そなたの気を引くため、だと言ったら?」
「えっ」
冷めかけた熱がまた上がった気がした。
いくらなんでも冗談だろう。
このお屋敷の主人である永臣が、奴隷の凪に――。
しかも昨日会ったばかりだというのに。
「からかうのはおやめください」
上がった熱を誤魔化すように布団に半分顔を埋め、抗議した。
「フッ、もう休め。今は病を治すことだけ考えていればよい」
ポンッと優しく頭を撫でられれば、これまで堪えていた微睡がやってくる。
身体が休息を欲しているんだろう。
永臣がいるというのに、凪はストンと眠りに落ちた。
その後も何度か目が覚めるたびに、額の手拭いを変えてくれたり、首や手の汗を拭う永臣がいた。
もう凪のためにそんなことをしてくれる人なんていないと思っていただけに、嬉しさが胸に込み上げてくる。
まだ会ったばかりだというのに、永臣にどうしようもなく心を許してしまうのは必然だった。