佳宵と韜晦
愛月撤灯4
午前零時を回ったあたり。花街の喧騒を抜け燈瑩は【酔蝶】の前に立っていた。
久し振りにかかってきた電話越し、オーナーから、どうしても店に顔を出してほしいと懇願された燈瑩は渋々【酔蝶】へと足を向けた。
出来れば月に会いたくなかった。だが、恐らくこの呼び出しは月からだろうということも察していた。店休日のはずなのに来てくれだなんて、他に理由が見当たらない。
怒っている訳では無い。月が悪い訳でも無い。
ただ自分が…色々な気持ちに、折り合いを付けられなかったから。
「っ、燈瑩──…」
店に入るとすぐに、聞き慣れた甘い声が燈瑩の耳を包む。
暗い受付カウンターの前に並べられた椅子に座っていた月が、立ち上がり駆け寄ってきた。
寒そうだ。ずっとここで待っていたんだろうか。
「…ごめんなさい」
消え入りそうな声でそう言うと長いまつ毛を伏せて唇を噛む月に、燈瑩は笑顔を見せた。
「この前のこと?謝る必要ないよ」
‘仕事なら誰とでも寝る’───その通りだ。月が己の仕事を失念しての発言だったとしても、事実としては何も間違ってはいないのだから。
燈瑩は上着を脱いで月の冷えた肩にかける。
「でも」
ポツリと小さくこぼした。
「月と寝たのは仕事じゃなかったよ?」
少し、情けない顔になったかな。言った後で思ったが仕方が無い。燈瑩は眉を下げて、月の手を離した。
「じゃあね」
「待って!!」
踵を返して帰ろうとする燈瑩の腕を月は引く。振り返る燈瑩に抱き付き胸に顔を埋めた。静寂が続く。
しばらくして、震える声で月が呟いた。
「…駄目ね、なんて言ったらいいかわからない…。いつもならセリフなんて…いくらでも、っ…」
涙が零れ落ちる前に、今度は燈瑩が月の腕を引いた。
別にその雫と表情が嘘でもかまわなかった。演技でも本当でももうどうだっていい。
そのまま階段を登って豪奢な扉を荒々しく開け、細い身体をベッドへと押し倒すとどちらからともなく口付けをする。
闇の中で重なる影を、格子の向こうに揺蕩う星々だけが見ていた。
ひとすじの煙が夜の九龍へと溶けていく。
脱ぎ捨てられた衣服とクシャクシャになったシーツを気にすることもせず、月は燈瑩の身体の傷跡へと指を這わせた。
「…傷、ふえたね」
煙草をふかしながら月の髪を撫でる燈瑩はそうかなと首を曲げたが、背中や腰といった自分では確認がしづらい箇所をツンツンとつつかれ苦笑いをした。
「仕事がバタバタしてるから」
「…危ない仕事?」
「揉める取引が多いかな」
あの日の月との一件以来、燈瑩は花街の集金から手を引き、裏の仕事の中でも特に際どい案件を引き受けることにしていた。
別にする必要もなかったのだが、その方が気が紛れたからだ。
「でももともとしてたし、薬扱ったり武器扱ったり。だから馴れてるから」
そう言って、燈瑩は時計にチラッと視線を投げた。それに気付いた月が少し上ずった声で問う。
「なにか用事?」
「光明街の方にね。顔出してる賭場があって」
「───…」
「どうしたの?」
「あ、ううん」
微かな違和感。それを打ち消すように、月は燈瑩の腰に追い縋った。
「行かないで」
「月…」
「今日は一緒に居て、お願い」
しがみついて離れない。その腕を振り払うことは燈瑩にはもちろん出来なかった。
床に吸い殻を落とし、指を絡めながら手の平を合わせて乱れたシーツにもう一度月を組み敷く。
先刻とはうってかわってゆっくりと合わさる呼吸。
艶然とした月の微笑みが、暗闇の中でなぜか、妙にハッキリと燈瑩の目に映った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
早朝、自宅に帰り着いた燈瑩は寝具に身を投げ出し天井を見詰める。
結局朝まで【酔蝶】で月と過ごしてしまった。賭場にはまた今夜行けばいいか、昨日は集会だったが、そうはいっても別に急ぎの用事でもないし…不参加だったことを若干どやされるかも知れないが。
考えつつ瞳を閉じる。
俺はどうしたいんだろう…くだらない疑問に1人で笑いが漏れた。
どうしたいもなにもねぇよ。馬鹿だな、ほんとに。
両腕で顔を覆う。頭を回るのは同じ様な事ばかり、グルグルグルグルと───…
ふと、目を覚まして身体を起こす。どうやら考えているうちにいつの間にやら眠ってしまったようで、明るかった筈の窓の向こうがまた暗くなっている。
今何時だ?そう思い携帯を開いた燈瑩の目にすぐに飛び込んでくる時間表示。
────おかしい。
すぐに時間表示が見えるはずはないのだ。
昨日は賭場にも顔を出していないし連絡をすることすら怠っていた。ならば、誰かしらからの着信履歴が残っていてもいい。
普段なら山のような通知が画面を埋めているのに…ディスプレイには何も無い。
嫌な予感がして光明街近くの賭場へと急ぐ。
燈瑩自身はどこかのグループに属しているわけではなかったが、その賭場は付き合いのあるマフィアや半グレ達が根城としてたむろっている場所だった。
そして辿り着いた穴蔵…入り口の鍵は持っている。が、使うことはなかった。
開いていたのだ。この時点で燈瑩には部屋の中の光景の予想もついていた。
扉を引くと案の定充満している鉄の匂い。建物内へ歩を進める。ピチャ、と足元で水音がした。もはや確かめるまでもない。
血だ。
広がる血の海の中、無数の死体が転がっていた。
かつて人間だったモノたちはただの肉の塊と化してそこらじゅうにゴロゴロ横たわっている。
数えるのも嫌になるほどの人数────ここを拠点としていた者ほぼ全員だろう。
対立していたグループの仕業か。突然の奇襲だったようだ、これは昨日の集会の事がバレていたと見て間違いない。
自分だけ、難を逃れた。自分だけ………俺だけ?
‘行かないで’
月の声がリフレインする。
‘今日は一緒に居て、お願い’
「─────…」
胸ポケットから取り出した煙草に火を点け、燈瑩はゆっくりと【酔蝶】へ向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「燈瑩!」
【酔蝶】への道の途中、薄暗い裏路地。こんな所には似合わない姿が名前を呼んでいる。
「月…」
店から抜け出して来たのか。会うような気がしていたので驚きはしなかった燈瑩は、月に歩み寄る。
「さっき貴方のこと探してて──」
「月が、じゃないよね」
その言葉に答えに詰まり、考えあぐねる様子の月。燈瑩の声が空気を揺らした。
「どうして俺を引き止めたの?」
月が目を見開く。
「昨日…俺を引き止めなければ、俺はちゃんと賭場に行ったのに」
【酔蝶】の権利はもともと他のグループが握っていたのだが、それを賭場を拠点としていたグループが奪い取ったという経緯がある。
燈瑩自身は賭場のグループに属していたわけではないが、‘仲間’と言って差し支えない立ち位置ではあった。
そして【酔蝶】で働いて長い月は、もともとのグループと関係が深かった。それには燈瑩も気付いていた。
そもそも、情報を引き出したりなんだりする目的で燈瑩に近づいたはずだ。
月は知っていたんだろう、昨日あの賭場が襲撃されることを。知っていて、燈瑩を庇った。自分の立場が危うくなることもかえりみず。
月の瞳が燈瑩を捉える。
「だって…アタシは…」
これまで口に出さなかった。そんな生き方をしてこなかった。
けれど────きっとはじめから、互いにわかっていたのだ。あの夜燈瑩が【酔蝶】の部屋の扉を開いた時から。
唇が言葉を形作りかける、刹那。
乾いた銃声が辺りに響いた。
月の華奢な身体から血飛沫が上がり燈瑩の目の前で崩れ落ちる。
意識するより早くその背中を支えた燈瑩は、視界の端に拳銃を構えた男達を認め自身も内ポケットから拳銃を抜き、振り向きざまに撃ち返した。
交差する弾丸の一発が右頬を掠めて、肌を裂きパッと赤い花を咲かせる。
燈瑩の放った初撃の数発は2人の男を捉え、慌てて背中を見せた最後の1人に残りの全弾をブチ込むと辺りはシンと静かになった。
対立していたグループの一角だろう。周りを見渡したが、とりあえず他に襲撃者の姿は見当たらない。
燈瑩は膝をつき月を腕に抱きかかえた。その腕がみるみる朱に染まる。
────助からない。経験則でわかった。
月は薄く目を開け燈瑩の右頬の傷口から流れる血を白い指で拭うと、微笑み、掠れた声で囁いた。
「……どう、して…だろうね…?」
「!──────…」
‘歳知ってるのなんて月くらいだよ’
‘どうして私には言ったの?’
‘んー……’
‘─────どうしてだろうね?’
あの時はぐらかした言葉。それは────…
いつの間にか降り出した雨があたりを包み、地面に広がる血溜まりを洗い流しはじめる。
色を失っていく月の身体を抱き締めたまま、燈瑩は長い間、その場から動けずにいた。




