「大嫌い」と「ごめんね」
枯樹生華7
昼と夜の移り変わる時刻───かつては魔物に遭遇すると信じられていた、逢魔が時。
樹は1人、九龍灣隅の倉庫街へ出向いてゴロゴロと転がるドラム缶のひとつに腰を下ろしていた。
いつも紅花と待ち合わせをするあたりとは異なり、資材や運搬用コンテナが置かれたあまり人気の無い寂れた一角。
今回の目的を考えると、人目にはつきたくない樹としても伯父としても双方都合のいい場所だ。
約束の時間ちょうど、樹の前に仕立てのいいスーツに身を包んだ中年の男があらわれる。
何人もの部下を引き連れ、そしてその全員が拳銃を所持していた。
物々しい様子に、‘交渉’って雰囲気じゃないな…と樹は思う。
まぁ、そんな武装程度に怯むような神経はこちらも持ち合わせていないけれど。
「初めまして。君が樹かな」
「紅花の伯父さん?」
互いに答えのわかりきっている質問を交わす。この会話に特に意味はない、ただのワンクッション。
けれど目的はもう明確なので、樹はいきなり本題に斬り込んだ。
「俺の事知ってるんでしょ。【黑龍】の息子だから近付いたのはわかってるよ」
伯父が眉を上げる。樹は続けた。
「アンバーの事もわかってる。ルートが欲しいんだよね?紅花の父親や、友達にやってきたみたいに」
「やってきた…とは?」
「殺してきたって意味。証拠も揃ってる」
伯父は樹の発言を受けて、解せないといった表情で口を開いた。
「そこまで調べてをつけていて、どうしてノコノコ現れたんだ?」
「紅花をこういう事には使わないでおばあちゃんと住ませてあげてほしかったから」
「そんな理由で?」
そうだと樹が頷くと伯父は無遠慮に高笑いをする。馬鹿げた理由に聞こえたのだろう。
「紅花が気に入ったのか?あいつもお前を気に入っているようだったな。手籠めにしてもかまわんぞ、協力してくれるのならな」
伯父の低俗な提案に樹は嫌悪感を覚える。
誰がそんな希望を出した?おばあちゃんと住ませてあげてほしいって言っただろ、耳付いてないのか?
「俺は協力出来ないよ。アンバーも。でも、紅花をほっとけない」
樹は淡々と語る。
「九龍からは手を引いて紅花も自由にしてあげてくれない?俺達も、これまで伯父さんが関わってきた件に言及するつもりはないから」
今までの所業が表沙汰になれば、伯父とて被害者の同胞や近親者からの報復にあうなど多少のトラブルは避けられないだろう。
だがそのくらいでは交換条件として弱いのは樹も理解している。
「甘いんだな。本当に【黑龍】の一族か?」
「違うよ…今は、ただの九龍の樹」
伯父の問いかけを樹は否定する。
【東風】で告げたように、【黑龍】の息子としての樹はもう居ない。家を出た時【黑龍】の名は棄てると決意していた。
今ここに居るのは‘九龍’の樹。仲間と何気ない日々を過ごすだけの、ただの少年だ。
「だから、伯父さんの期待には応えられない」
ハッキリとした口調で言い切ると、これ以上話しても囲い込むのは無理だと悟ったのであろう伯父が合図をした。取り巻き達の銃口が一斉に跳ね上がる。
「こちらもそう言われて、はいそうですかという訳にはいかないものでね。アンバーか紅花か、選んでくれるかな?」
要するに、アンバーを伯父に売れば紅花の扱いを改める。アンバーを見逃すのであれば、紅花にはこれからも働いてもらう。
どうしようもない2択だ。それに、例えどちらかを選んだとしたってもう片方の約束はのちのち反故にされてしまうだろう。
そんな甘言を素直に信じる人間はこの東洋に巣食う魔窟、九龍城塞では暮らせない。
やっぱりこうなるか…そう思い、樹は目を細め伯父を見据える。そして立ち上がりかけた────その時。
「樹!!」
張り詰めた空気を引き裂く聞き慣れた声が響いて、ふいに姿をあらわした紅花が走ってきた。
こっそりついてきていたのか。どうやら伯父も知らなかったらしく、対応に遅れが出た。
その隙を突き樹の傍まで駆け寄った紅花は樹の前で守るように両腕を目一杯広げ、小さな身体を盾にし伯父を睨みつける。
「樹に悪いことしないで!!紅花の大切な友達なの!!紅花の大切な人達にもう何もしないで!!」
声を張り上げる紅花。
「今までのお友達にも…パパにも…っ…!!」
‘パパにも’。隠れて話を聞いていたようだ。
瞳に涙を溜めた表情は怒りと悲しみに満ちていて、伯父を明白に拒絶していた。
「伯父さんなんて大っ嫌いよ!!!!」
叫ぶと同時に堪えきれなかった涙が零れ、紅潮した幼い頬を雫が伝う。
本人にバレてしまってはこれから紅花を使っていく計画は難しくなるだろう。これまでの様に懐柔することも難しそうだ。
仕方無い…使えない手駒は処分するより他にない。そんな様子で伯父も2人へ銃口を向ける。
紅花が息を飲む。その肩を、横にしゃがみ込んだ樹が抱いた。
「怖くないよ。ちょっとだけ目つぶって?」
そう言って、樹はかぶっていた中華帽をおもむろに脱ぐ。紅花が樹の胸に顔を埋めた。
そして無数の銃声が響き────
同時に、周りにいた伯父の取り巻きが1人残らず、全身から血を流して倒れ込んだ。
機関銃だ。聞こえた無数の銃声はこの連射音だった。
何が起こったのかわからない伯父が、慌てて辺りを見回す。樹が口を開いた。
「もう1回言うけど…俺達は協力出来ないよ。このまま帰ってほしいんだけど。紅花の為にも」
言いながら、正直樹は悩んでいた。
伯父を逃すことはどうあがいてもプラスにはならない。復讐にくるかも知れないし、紅花にも銃を向けた今、彼女の安全も保証されない。
だけど、紅花にとっては肉親なのだ。
理屈ではなく気持ちがどう捉えるか。なるべく彼女の心が傷付かないようにしたい。
「樹……」
紅花がかすかな声を出した。
「紅花は、大丈夫だよ」
消え入りそうだが、その実、強い意志を持った声。答えは決まっているようだ。
伯父にも今さら退くという選択肢は無く、どうにか樹と紅花を仕留めんと血眼になっている。
樹はわかったと短く言い、手に持った帽子を僅かに上下に振った。
そして伯父の銃口が2人を狙い銃弾が発射される─────より早く、破裂音がし、伯父の後頭部にひとつ風穴があいた。
「……紅花」
静寂の中、名前を呼ぶ樹の声に紅花はクシャクシャになった顔を上げる。
「…ごめんね」
それ以外の言葉が思い付かず、樹は目を伏せた。紅花はカーディガンの袖で涙を拭い呟く。
「伯父さん…悪い人だったんだね…」
肯定することも否定することも出来ずに押し黙る樹。自分達だって、人の事をどうこう言える生き方ではないのだ。
「ねぇ紅花、俺おばあちゃんのところまで送るよ。一緒に暮らせるように頼んでおいたから」
いくらか明るい声音を心掛ける。その言葉に紅花は少し驚いた様子だったが、コクンと頷いた。
後ろに広がる凄惨な光景が紅花の視界には入らないように気を付けて、振り返らず倉庫街を出る。
港に面したひらけた場所へ着くと、燈瑩と上が用意した車を停めて待っていた。
当初は帰りの足にするだけのつもりだったのだが、紅花の登場によって予定を大幅に変更し、このまま祖母の家まで向かうことに。
出発前、燈瑩が紅花に可愛らしいパンダのぬいぐるみを渡した。
「これ俺と猫から。連れて行ってもらえる?」
見掛けより随分とあるそのぬいぐるみの重さを樹は若干不思議に思ったが、紅花は気にせず嬉しそうにしていた。
現場の後処理をするという燈瑩をその場に残して、上を運転手とし3人で九龍を離れる。
「紅花、伯父さんの家にある物で必要なのは?おもちゃとか服とか。俺取ってくるよ」
伯父の根城は押さえていた。道中尋ねる樹に、紅花は首を横に振る。
「いらない、なんにもいらない。伯父さんに貰ったものは全部いらないよ」
「…そっか」
強い調子での物言いに樹は余計なお世話だったかなと思ったが、ポソっと‘猫がくれたチョコの箱くらい’と聞こえたので、わかった、必ず持ってくると返事をした。
すっかり夜の帳がおりた香港、車は喧騒に包まれる街を抜け田舎道へと進む。
ぬいぐるみを抱きかかえた紅花が疲労と眠気からか樹にもたれかかってきた。
「寝てていいよ。まだかかるし、おばあちゃんの所に着いたら起こすから」
「…うん」
樹の言葉に紅花は頷き、ほどなくしてかすかな寝息が聞こえてきた。
「寝たん?」
トーンを落とした上の声。樹はルームミラー越しに視線を合わせた。
「疲れたみたい。ごめんね上、急に出掛けることになっちゃって」
「ええよ、予定あるわけちゃうかったし。それよか誰にも大事なくて良かったわ」
「んー…かなぁ…」
誰にも、というのは、こちら側から見ての話だ。
伯父とその取り巻き達は全滅しているのだから紅花の立ち位置を考えるとなんとも言えず、樹はどっちつかずな返事をした。
あの時、一瞬にして全員を斃したのは燈瑩の機関銃だった。
和平的には収まらないと予想していたので、燈瑩は戦闘になった場合の為に樹の正面───伯父の背後───の倉庫上で待機していた。
機関銃を選んだのは伯父側が多人数で来ると踏んでいたから。紅花までついてくるとは予想出来なかったものの、概ね推測通りの展開になった。
そして樹の状況判断により、予め決めていた‘帽子を脱ぐ’という動作にあわせて発砲したのだ。
銃は使うことにならなきゃいいね、と燈瑩は言っていたが。
祖母へのコンタクトは早い段階で上が取ってくれており、こちらも比較的スムーズに事は運んだ。
あとは紅花を無事に送り届けるのみ。
最善とは言えない結果だな。程遠いというわけでもないけれど…紅花はどう思ったのだろうか。
樹はスヤスヤと眠る横顔を見詰めて考え、それから車窓の外へと視線を移した。
香港の空はどこまでも高く、晴夜にうつろいはじめた星々の光が、せめてもの餞として行く道を照らしてくれているかのように輝いていた。




