噓と切り札
枯樹生華5
「…すごい降ってる」
「紅花、お天気予報みてきたのに!」
「俺も」
とある午後、いつものお茶会の途中。
快晴だった空は一転して分厚い灰色の雲に覆われ、樹と紅花は突然の通り雨に見舞われていた。
近場の店の軒下に2人で逃げ込み、アスファルトにはじける大きな雨粒を見詰める。この様子だと暫くは止みそうにない。
九龍灣の波止場で海を眺めながら遊んでいたために屋根のある場所までかなり距離があり、スコールの様に降りしきる雨に2人の服はまたたく間にびしょ濡れになってしまった。
樹は水を吸って重くなった上着をパンパンと叩いてみるも、そんな気休めでは水分は取れず、やれやれといった調子で呟く。
「ビチャビチャだ、搾れるかも。こんなことになるなら海入っちゃっても良かったね」
天気いいし砂浜でも行く?えー準備してないよ服濡れちゃう、けど行きたいね…なんてちょうど話していたところだった。
「ふふっ!そうね!今度は行っちゃおうよ」
笑って頷く紅花も、試しに搾ろうと上着を脱ぐ樹の真似をしてカーディガンを肩から落とした。
と、ノースリーブのワンピースからのぞく肌に樹の視線がとまる。
「紅花…それどうしたの?」
あらわになった二の腕にある、無数の痣。変色したその打撲痕は痛々しく、白い肌とのコントラストがよりいっそう異質さを際立たせている。
樹の問いに紅花が慌てて腕を隠す素振りをみせた。うっかり出してしまった、という雰囲気。
「こ、転んじゃったの!」
明らかに取り繕った言葉と表情。転んじゃった?
いや、どれだけ派手に転んでも、こうはならない。樹は紅花の顔を覗き込んだ。
「本当のこと教えて?」
紅花は答えを言いあぐねたが、少しして痣を小さな手でさすりながらポツポツと話す。
「……伯父さんに怒られちゃったの。紅花が悪い子だから」
どうやら、伯父は普段から躾と言っては紅花に暴力を振るうらしい。
しかし詳しく聞いていくと、紅花が何か悪さをしたということはなく単に伯父の機嫌次第なのではないかというような話ばかり。
躾だとしても手を上げるのはどうかと思うが、ただの憂さ晴らしであればこの伯父…本当に救いようがない。
「ごめん…俺、知らなかった…」
「え?樹のせいじゃないわ!」
謝る樹に、内緒にしたくて長袖着てるんだものと紅花が否定する。
それでも気が付くべきだった。注意深く見ていればわかったことだ。憤懣が樹の胸中に渦を巻く。
「別に…人に言うような事でもなかったし…」
紅花が地面に視線を落とす。
家庭内暴力は、本来であれば人に相談するような事のはずだが。───伯父を庇っているのだろうか。
「紅花、伯父さんのこと好きなんだね」
「え?嫌いよ」
「えっ?」
想像と違う答えに樹は目をしばたたかせる。
嫌いなのか?ならどうして庇うんだ?
「嫌いよあの人。紅花、田舎のおばあちゃんと一緒に居たいのに会わせてくれないし」
「じゃあなんで転んだって…」
「だって紅花が悪い子だってわかったら樹に嫌われちゃうもん」
そういうことか。
伯父を庇った訳ではなく、自分が‘悪い子’という事を隠すための嘘。
「紅花は良い子だよ」
「そうかな…でも伯父さん怒るもん…」
「それは紅花のせいじゃないよ」
日頃の鬱憤、事業でのミス、計画の進捗状況。伯父が怒るのは完全なる外的要因だ。
唯一の近しい身内からお前が悪いなどと常日頃言われれば、そう思い込んでしまうのも無理はない。
大人でさえそういった類の洗脳はあるのだ、子供の紅花が抗う術はないに等しいだろう。
この状況、どうにか出来ないのだろうか。樹は少し考えて口を開く。
「紅花はおばあちゃんと住みたいの?」
「うん、おばあちゃん優しいから大好き。パパが死んじゃってからはあんまり会えてないんだけど…」
‘パパが死んじゃってから’。馮さんのことか。おばあちゃんとは母親方の祖母らしい。
祖母のもとへ預けてもらえないのは、伯父が紅花をダシに裏社会での地位を上げているせいである。
仕事を強奪するにあたり紅花の使い勝手が良いから手元に置いておきたいのだ。そうして秘密裏にブラックなパイプ役をやらせているくせに、気分次第で殴りつける。
本当に救いようがない。
このまま九龍での企みが進展しなければ伯父は機嫌を損ね、紅花はまた痣を増やすことになる。
それは容認しかねるが…かといって伯父を追い込むことを果たして紅花はよしとするのだろうか。
‘伯父は嫌いで祖母と暮らしたい’と、その言葉だけを受け取れば問題は無いようにみえるけれど…。
だが、こちらとしても、【黑龍】とアンバーの問題がある以上このまま見過ごす訳にはいかないのだ。
樹は跪き、紅花の両手をとって語りかけた。
「紅花…1個いいこと教えてあげる」
切り札をきろう。
「俺の知り合いにアンバーって人居たよ。伯父さんが探してたんでしょ?」
「えっ?すごい!樹はお友達が多いのね!」
思いがけない発言に紅花がハシャぐ。
事後報告になるが燈瑩は許してくれるだろう。それにここ数日で調べをつけた内容はあの時【東風】でたてた推測とほとんど遜色なく、遅かれ早かれ伯父との衝突は避けられない事態だった。
「アンバーの事も含めて、俺も話したいことがある。今度九龍湾に伯父さん呼んでくれないかな?」
わかった、と頷く紅花。アンバーの情報を得る──伯父の機嫌をとる──ことが出来そうで、少し安心したようだ。
これでさしあたり紅花が殴られる事はない。
樹も会いたいと言っているし、【黑龍】との繋がりを得る打診ができて伯父は気分がいいだろう。
その際に何をどう話すかを考え、紅花の今後の為の準備もしなければ。
普段通り好き勝手に動いていいのであれば正直そんなに難しくは無いが、紅花の立場や心情を鑑みると慎重に事を運ばざるを得ない。
雨が上がり、茶餐廳でお茶を楽しんだあといつものように紅花を見送る。
アンバーについて伝えた事と顔合わせを申し入れた事で、状況は大きく変わるだろう。明日紅花と会ったら伯父から何らかの返答があるはず。
樹が【東風】に戻ると、東と猫がイカサマ大小で白熱しているところだった。
早々に抜けたらしい燈瑩が横で掛け金の管理を請け負っている。第三者が勘定しないと東はサイコロだけでなく札束にすら小細工を仕掛け誤魔化すからだ。
「おー、おかえり。ガキどうだった?」
猫がテーブルから目を離さないままぶっきらぼうに言った。口は悪いが、紅花を気にして【東風】に顔を出してくれているのである。
「痣だらけだった」
「は?」
樹の返答に視線をこちらに向けた猫の隙を突き、東がイカサマをしようと動いた。
そんなものは織り込み済みだった猫は、一瞥もせず扇子を東の顔面に飛ばす。音もなく放たれた小型の鉄扇は見事に鼻っ柱をとらえ、東はうめき声と共に椅子から転がり落ちた。
「伯父、虐待までしてんのかよ」
詳細を聞いた猫が眉間にシワを寄せる。流れを説明する中で、樹がアンバーについて独断で話した事を謝罪すると燈瑩は何の問題もないと笑って言葉を続けた。
「もうほとんど情報も集まってるから。伯父が黒幕なのは間違いないかな、馮さんの件も」
裏社会での伯父のルートをさぐり、売人や客のデータからもともとそれを持っていた人物を割り出し、さらに死亡原因や状況まで特定した。予想通り、辿っていく先には全ての事件で伯父の姿がチラつき、完全に名前が出ているものもいくつか。
もはや疑いようはない。
燈瑩が煙草に火をつけながら質問をする。
「樹、どうしたい?」
どうしたい…か。樹は悩んだ。
個人的には紅花と伯父を切り離し、紅花が安心して暮らせる環境を作りたい。田舎に居るという祖母のもとへ預けるのが最善だろう。
だが、どう切り離すのか。伯父が紅花を手放すような条件をこちらが出せる訳では無い。というより、燈瑩や樹がつけ狙われている以上、丸く収める方法など本当は存在しないのだ。
事の流れによっては…紅花に失望される結末を迎えることになる。このままいけば伯父を片付ける方向になってしまうからだ。
「伯父さんと会ったら、話してみる。多分駄目だと思うけど」
この件からは手を引いてもらい、紅花は祖母と暮らせるように。無理筋だということはわかっている、伯父には何のメリットも無いのだから。
しかしこっちも、通常なら問答無用で葬る──そもそもそれが物騒なのだが──ところ、紅花が居るが故に最大限の譲歩を試みている。
これでカタがつかなければ、仕方無い。
「わかった。じゃあ俺はそれ用に準備するよ」
燈瑩が穏やかな声音とは裏腹な意味合いのこもった台詞を口にする。
願ったような結果になる可能性は限り無く低い事をわかっているからだ。その上で、どう転んでもいいように色々と手を回してくれるのだろう。
「ありがとう」
「ん?どっちかって言うと俺の問題でしょ」
感謝を述べる樹に、お礼を言うような話ではないと笑う燈瑩。
確かに現状で、的にかけられ早急に対応する必要に迫られているのは燈瑩だ。
だがそれは‘どちらかと言えば’そうなだけ。伯父には樹を取り込む画策もある。
加えて紅花の件については完全に色々と私情が挟まっており、燈瑩1人で動くのであれば伯父を早々に殺して終いなのに、ややこしいことになっているのは樹も承知していた。
「俺も紅花ちゃんの事は気になるし。みんなそうだよ、だから猫もこうやって来てるんだもんね」
「るせぇな。まぁ…何かやれる事ありゃ言えよ」
燈瑩の言葉に猫は気怠そうに舌打ちしたが、態度と反対に台詞は優しいものだった。
樹はもう一度ありがとうと言って、窓の外へと目を向ける。
いつの間にかまた降り出した雨は街を濡らし、九龍に深く立ち込めた霧はまるで、これからの先行きに思いを巡らせる各々の心の内を表しているかのようだった。




