城砦暮らしとルーティンワーク・前
雲淡風輕1
台所からフワフワ漂う、鼻をくすぐる匂いで目を覚ます。
この香りは…お粥。皮蛋痩肉粥あたり…。思いながら起き上がった樹は、寝ている間にベッドの下へと蹴落としてしまったらしい月餅型クッション達を床から拾うとポンポンはたいて枕元に戻した。眠気眼を擦り洗面台へむかえば、キッチンより聞こえる東の‘早晨’。食卓に並べられていく朝食の皿が視界の端に入る。テレビから流れるニュース番組の声をBGMに軽く身支度。
〈本日の香港は全域で快晴。澄み渡る青空、湿度も低く比較的過ごしやすいでしょう。お散歩にもうってつけの陽気です。観光客で賑わう維多利亞港に面した遊歩道には、2500体もの小振りな熊猫の置物が出現。見物に訪れた人々は「みんなぽっちゃりしていて可愛い」と記念撮影を───…〉
液晶画面にうつる映像をチラ見しつつ、テーブルにつくなり粥を吸い込む。具材はやはり皮蛋と豚肉、トロトロになるまで煮込んだ米が絡んでとても美味。もちろん付け合わせの油炸鬼もスタンバイ。おかずの油菜は茹でた芥藍、シャキシャキ感を残した鮮やかな緑の葉や茎へ蠔油をたっぷりかけていただきます。今朝の茶葉は壽眉、サッパリした飲み口で早餐にピッタリな白茶。ん?あれ、お椀のお粥がもうほとんど無いぞ…いつのまに食べたんだ俺は…?
起き抜けから怒濤の吸引力を発揮する樹へ、東は粥のおかわりをよそいがてら薬棚から取り出した小さめサイズの紙袋を見せてカサカサ振った。
「樹、今日配達のバイトよね?ついでに陳にこれ届けてくれないかしら」
中身は冷えに効く漢方の様子。どの道フリーマーケットにも顔を出すつもりでいた樹が頷くと、東は小袋を配達用鞄の中へin。オヤツの三文治も一緒に詰めた。タネは定番フワフワ卵焼き。
諸々を平らげ食器を片し、準備を整えた樹は、競馬新聞とにらめっこする東へ手を振り【東風】を出て屋上へ。朝の喧騒で賑わう九龍を見下ろす。活気ある水果市場、仕事場や寺子屋へ通勤通学する人々、フル稼働する叉焼工場や魚蛋工場。あっ…あそこの曲がり角の茶餐廳、改装中だ。いつリオープンするんだろ?チェックチェック…。
視線を正面へ戻せば、連なるルーフトップ。彼方まで広がるデコボコ違法建築群。何でもありの九龍での数少ない禁止事項のひとつ───‘14階建て以上は造らないこと’。だが実際、そんなルールは誰も気にしておらず。連日連夜と絶えず増築改築を繰り返し、魔窟は日々不格好に成長し続けている。
そも、高さ制限を設けるのなら階数ではなくメートルで縛るべきだったのだ。城砦で住人に‘常識的に考えて’なんて言葉は通用する訳がなく、‘階数が14階までに収まれば上背は幾らでも構わない’と解釈するのが一般的。結局14階も守られてはいないものの、この街のそういったいい加減さ──安全上の問題点は生じるにしろ、とにかく──が居心地の良さの核ともいえる。香港政府に怒られはするけれど、いかんせん九龍城は三不管。中国英国いずれの法律も及びはしない。そのふくよかでツルンとしたお腹が削られ痩せてしまうのではと心配しながら毎日啟德空港へと帰還するジャンボジェット達には、いささか申し訳ない気持ちもあるが。
人民帽をかぶり直して、思案。鶏蛋仔屋にも行こうかな?王が新作の試食をしてほしいと言っていた。そういえば蓮も同じようなことを言っていた気がする。2人共、よくあんなに次々と新しいメニューを思いつくよな…夜ご飯は蓮の食肆でテイクアウェイしよっかな…。今しがた粥を胃袋に収め、鞄には三文治を収め、これから鶏蛋仔屋へ寄ろうというのに、既に夕食にまで伸びる意識。
ともあれ───まずは近場の配達を数件終わらせよう。荷物はノーマルな郵便ばかりだ、のんびりとやって冇問題。樹は数回屈伸し、足裏に緩く力を込め靴底を鳴らすと、九龍の温く穏やかな空気を裂いて高く飛んだ。