ラッキーカラーと‘もう1回’
落花流水19
九龍城から香港の雑踏を抜け、海沿いを進む2代目桑塔納。後部座席で仲良くお喋りに興じる妮娜と大地をバックミラーで確認しつつハンドルを切る上の頬を、生温い潮風が撫でた。
埠頭での抗争をきっかけに、様々な裏事情がリークされ始めた【天満會】。陽の情報通り警察当局にも踏み込まれ、同タイミングで新【天堂會】は可及的速やかに【天満會】を尻尾切り。当初の計画よりは些か派手な退場とはなったものの許容範囲、責任を無法地帯側の支部へと押し付けてしまえば司法の介入も回避でき、お得な幕引きであることに違いはなかった。
芸能関係での逮捕者はゴシップ誌の美味しいネタに。ハートフルな慈善事業団体やサステナブルな環境保護団体がいくつか面の皮を剥がされたりしつつ、詐欺事件の特ダネは、ワイドショーにて連日お茶の間を賑わせた。
大地や上より聞き及んだ内情に加え報道されているニュースを咀嚼し、妮娜も【天満會】について様態を納得。そして───前々から躊躇っていた事柄をひとつ実行に移した。
「実は、久し振りに娘へ手紙を出してみたの。そうしたら返事がきてね。ビックリしちゃったんだけど。近々香港から大陸へ引っ越すから、その前に会いに来ない?って」
再び娘へ手紙を送る勇気を与えてくれたのは大地や樹との会話だったと妮娜。住居の近くまで車で送迎しようかと提案する上へ大地は二つ返事、最初は‘申し訳ない’と遠慮していた妮娜だったが…お手伝いをさせてくれという大地へ最終的に首を縦に振り、3人連れ立って向かう運びに。
上はアクセルを踏みながら、首に下がっている翡翠のネックレスを弄る。港での騒動の後に妮娜がプレゼントしてくれたひと品。城砦内での爆弾事件のことは妮娜に伏せていたが、‘上くんにもお礼がしたい’と言って退かない彼女に、洒落た翡翠の首飾りを製作してもらった。どの石が好みか訊かれた上が翡翠をチョイスした理由は差し色もしかり───C4に巻き付いたコード。樹が切ったのは、赤でも青でもなく、裏側に隠れていた緑だったので。
樹いわく…自分の心が、‘良い’と感じた色。幸運曲奇のアドバイス、‘好彩嘅顏色:你鍾意嘅顏色’。ついでに澳門のバカラで勝敗を分けたのは赤でも青でもなくまさかの緑。だから緑にした、俺にとって目立つ色がそれだった。樹は憚らずそう言っていた。
結果、爆弾のカウントダウンタイマーは見事ストップ。羨ましいほどに清々しい決断力と豪運。思い返し、またチャリチャリとネックレスを弄る上。
スムーズに街道を進む四輪は、ほどなくして妮娜の娘が住んでいる区域へ到着。建ち並ぶマンション群。建物名を探し、横の物陰へと車を停める。車外へ降りた妮娜が聳えるスカイスクレイパーを見上げて呟いた。
「こんなに近い距離なのに。ずいぶん、長いことかかっちゃったわね」
ハンドバッグの持ち手を握る指先へ無意識に力がこもる。その指先に大地が掌を重ね、視線を合わせて頷いた。妮娜も頷いて応え、背筋を伸ばすと、意を決してエントランスへ歩き出す。離れてゆく後ろ姿を桑塔納に凭れ見守る上と大地。
入り口の硝子戸の前で、妮娜は数回深呼吸。ドアを押す勇気がどうにも出ない。まだロビーにすら足を踏み入れていないのに。この扉がこれだけ重く感じるのならば、玄関のチャイムなどてんで鳴らせないのでは。1言目の台詞も浮かばない。何日も…いや…何年も前から、ずっと考えているけれど。瞼をキュッと瞑る。
その時。背後であがった、‘あっ’と言う高い声。
振り向いた妮娜の視線の先には、腕に買い物袋を提げてこちらをジッと見詰める女性が居た。懐かしい面差し。記憶のフィルムに映る風貌よりは大人びたが、しかし雰囲気は昔と変わらず、可愛い‘愛娘’のまま。妮娜は言葉に窮した。
久方振りね、大きくなって、仕事の調子は、生活はどう、困った事はないかしら、今までどう暮らしていたの、元気そうでよかった、あの時はごめんなさい。
どれもこれもしっくりこなかった。なので、歩み寄って、そっと彼女の肩に手を置いた。長らくそうして向かい合っていた2人だが───やがて、どちらからともなく、抱擁を交わす。
言葉は、いらなかった。必死に取り繕おうと踠いていたのが馬鹿みたいだ。体裁を整える必要などもなかった。水中に舞い上がり視界を濁らせていた泥濘は時を経て水底へ沈み、辺りには澄んだ景色が広がっていた。差し込む光は、今や、いつかと同じく水面を優しく輝かせている。
───許せなかったり、しない。
澱が消えてなくなる事は無い。されど、それをゆっくりと慈しむように踏み締め、その上に立つことはきっと出来るから。
涙ぐみながら笑む妮娜へ娘も笑い、彼女を陽だまりのベンチへ促す。午後の陽光が注ぐ木組みの椅子に並んで腰掛けた。互いの近況をポツポツと語る。【天満會】のトラブルを気にする妮娜へ、娘は‘私は友達付き合いで集会やボランティアに行ってただけ’と肩を竦めた。友人は、家庭の問題…つまり母親との関係性も知っており、會の仲間や活動が心の拠り所になれればと善意で誘ってくれていたようだ。
となると…そこからこちらの財布事情も漏れたのか。納得しつつ妮娜はただ相槌を打つ。
娘の引っ越しの動機は───結婚。中国都市部から香港へ働きに来ていた男性と長く交際しており、彼が仕事に区切りをつけまた大陸へと戻る今回の節目で籍を入れ、故郷へ共に行くことにしたと。妮娜は手を叩いて喜び心からの祝辞を述べる。
‘それでね’と言って口籠る娘。静かに続きを待つ妮娜へ真剣な眼差しを向け、紡いだ。
「…媽媽、は…どうする?一緒にくる?」
─────ママ。
2度と聴けはしないかも知れないと、思い出の隅から幾度となく掬いあげては、反芻していた呼び名。媽媽。妮娜は再度潤みだした瞳を落ち着かせ、娘の問いに逡巡。まずは配偶者へと改めて挨拶させてほしいと新たな約束をする。
取り合った手と手から伝わる体温。幾年が経とうと変わらない温もり。その再会を祝福するかのように、暖かく柔らかに薫る風が、フワリと街を吹き抜けた。
一方その頃、車の陰。
「上、もーちょっと静かにしてよ。付いてきたのが娘さんにバレちゃうじゃん」
「す、すまん…ズビッ…やけどホンマ…よっ良かったなと…ブエッ…思て…ズビビッ」
「うわ!鼻水すご!ティッシュ無いの?」
「こ、この前に全部使てしもて…補充忘れててん…ブエッ」
「しょうがないなぁ。じゃあこのティッシュあげる、トッテオキなんだけど」
「あ、ハギハギプリントやん?可愛えな…あんがとさん…ズビビビィッ」
「だから静かにかんでってば!もう!」