煙花と100万香港ドル・前
落花流水15
星期日。沈む夕陽が違法建築を赤く染め、微睡むネオンサインがうつらうつらと目を醒まし始めた頃。
「哥と樹、もう出掛けたのかなぁ」
「ちょうど向かっとるくらいなんとちゃうか。気になるん?」
自宅台所、小さなダイニングテーブルで画用紙を広げる大地が呟き、向かいに座っていた上は応えつつ家計簿から視線をあげた。
港での即売会は本日開催の予定。燈瑩は‘覗きに行く’という言い方をしていた、今回は婉曲表現ではなく本当に見てみるだけなのだろう。樹の信用は得られていなかったが。
「気になる…っていうか…多分、関係ないんだけどさ」
鉛筆をシャカシャカ動かす大地は煮え切らない物言い。‘関係ない’の主語が示すのは。
「妮娜さんこと言うてん?」
「んー、うん」
上の問いにコクリとする。彼女の娘は関わっていない、そう結論づいたものの、やはりソワソワしてしまう。自分に手伝えることはないだろうか。いや、恐らくないのだけれど…少しでも妮娜さんの気持ちを晴れさせられたら…。
「余計なお世話なのはわかってるの。けど、なにかやれればなぁって思っちゃう」
ボヤいて頬を膨らます大地を上は静かに見詰めた。先頃のお茶会でも大地は妮娜と色々話をしたようだった。樹からもいくらか成り行きを聞いている。そして、大地の言葉が、彼女を励ましたのだということも。
見掛けや仕草はまだまだ幼いが───中身は随分と逞しくなった。もはやその手を引くのではなく、その背を押せるほどに。
育っとるんやなぁ、ホンマ。
感慨と寂寥と要らぬ心配が胸中で綯い交ぜになり、上は眉間と口元にグッと力を入れてどうにか目頭の熱さを抑えた。合わせて膨らむ頬。気付いた大地が不審そうに片眉を吊り、負けじと更に頬を膨らませだした。唐突に開始される謎のにらめっこ。
と、上のスマホが鳴った。微信の通知音。スクリーンをタップした上は内容に目を通し、クスリと笑って大地へ画面を向ける。
「あ!笑った!上の負け」
「いや、あっぷっぷちゃうねんて。お殿様がお呼びやで」
届いたのは猫からの短文。〈大地貸せ〉と〈ジュース奢る〉のふたつ。‘何処に’と記載はなかったが【宵城】は休業日、寧が働くバーや蓮の食肆も休みだったはず。加えてこのタイミングとなれば。
「妮娜さん店で飲もや、っちゅー意味やろ。顔見せたったら?」
前のめりでメッセージを読んだ大地は、勢いよく首を縦に振ると自室へ戻って着替えを始めた。上も家計簿を閉じて立ち上がる。
俺も陳のフリマ手ぇ貸し行こか、今夜は匠もおらんらしいから1人で片付けるん手間やろしな…考えつつ上着に腕を通してストールを巻く。どちらも茶色。ふと、ラッキーカラーの話題になった際の樹を思い出す。俺を見るあの瞳には‘豆沙’と書いてあった、絶対に。アダ名の饅頭からの連想であろう。
饅頭が茶色ゆうたら、そらそうなるかもせんが…しゃーないやん好きなんやし…全身1色やから駄目なん?差し色とかしたらええの?ゆうて燈瑩さんかてほぼほぼ黒だけやん。なんで俺はモサいんやろか。心の中でひとりごちて鏡を見た。モフモフと丸いフォルム───うん、平安饅頭。先ずは体型がモサいねんな。って待て待て!!平安饅頭は茶ぁやのうて白やからな、白!!
どうでもいい方向に流れる思考を振り払い、髪を整え気合いを入れる。大地の‘支度完了’の声が聞こえ、豆沙は弟をよろしく頼む旨、城主へポチポチ返信を打った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大通りを逸れて裏路地へ。薄暗い小道を進む燈瑩は、隣をついてくる樹の顔色をチラリと窺った。スッポリかぶったフードの下より飛んでくるジトッとした視線。東から借りてきたパーカーは樹が着ると相当に丈が長く、そこはかとない掃晴娘感を醸している。樹はだいぶ持て余し気味な袖をまくり、ペットボトルの港式奶茶を啜りつつ借問。
「どれくらい居るの?人」
「どれくらいだろ。そんなにちゃんと把握してこなかったんだよね」
「なんで」
通常よりも強めなトーンの‘なんで’。視線の効果音がジトッからザクッに変わった。
「見に行くだけだから、ほんとに。取り引きするつもりでもないし」
髪も服もラフでしょと苦笑いをし、東から借りパクしたウインドブレーカーのチャックを首元まで閉める燈瑩。まぁ正確に言えば‘パク’は語弊だ、カジノへ付き合った折に拝借して以降【東風】に持って行くのが億劫で‘まだ返していないだけ’なので。紙巻きへ火を付ける燈瑩に樹が畳み掛けた。
「お祭りの時もロシアンルーレットで遊んだの知ってる」
「え!?や、弾が当たらないのわかってたから…ていうかそれも聞いたの…」
煙を吹きながらしどろもどろに返答する燈瑩の脳裏に過る、チョケた橡皮鴨。けっこう色々チクられてるな?他にも最近マズいことしてたっけ?でも祭りの件では最初にゲームに乗ったのは匠だったけど…ってのは言い訳ですが…。前科が加算されないように胸中で祈り、とりあえず謝罪。このナースのパワープレイは怪我とは違った意味で危ない。
「とにかく、雑な戦りかたは駄目」
「收到」
「いつも返事だけじゃん」
呆れた声音の樹は非難の目付き。ボトルを傾け中身を飲み干す。にわかに映った昔日の面影が懐かしく、燈瑩は港式奶茶を眺め目蓋を細めた。いつかも同様の科白で諌められた憶えがある。樹にではないけれど。俺は、こんな風に怒られてばかりだ。
その眼差しを不思議がった樹が何かを訊きかけ───やめて、立ち止まり、目線だけを燈瑩から路地の先へと移した。ほとんど同時に燈瑩も意識をそちらに裂く。
微かに銃声が聞こえていた。単発ではなく、立て続けに数種類。衝鋒槍も混ざっている気がする。距離はまだ遠い。例の港か?2人は1度目配せをして、それから、音の方角へ足早に向かった。