胸懐とグレイハウンド
落花流水13
木目の扉に吊り下げられたベルが蝶番の鳴声と共にカランと音をたて、妮娜はカウンター内から入口を見やる。ひょっこりと覗いたのは数時間前にお茶会を終え解散した陳の姿。わずかに喫驚した妮娜のロンググラスを拭く手が止まった。
「珍しいお客様ね」
「いいかな、お邪魔しても」
「もちろん。お邪魔じゃないし」
時計の針は盤面を登りきり、ユルユルと下りだしたところ。入店しドアを閉めようとする陳へ‘表の看板ひっくり返してちょうだい’と妮娜。
「閂門に?いいの?」
「禮拜一だしね」
小首を傾る陳に茶目っ気を含んだ眼差しで応える。禮拜一は客足が少ない。世間は新たな1週間を始めることに忙しく、夜に飲み歩く人間は他の曜日に比べその数を減らす。了解した陳は札を裏返し、けれど内鍵はかけずそのままにしてカウンタースツールへと尻を落ち着けた。拭き終えたロンググラスを棚へ戻した妮娜は指先を左右に振り、壁際のラックに並んだノンアルコールシロップの1列を示す。
「どうする?モクテル?」
「や、お酒呑んじゃう。グレイハウンド」
「いいけど、ちょこっとだけよ」
妮娜に嗜められ、はにかむ陳はパタパタと手の平を振った。
「今日は膝痛くないよ」
「今日は、ね」
笑顔で釘を刺す妮娜へ再びはにかむ陳。妮娜は薄めにつくったカクテルを陳の前へ置き、細い息を漏らした。
「ごめんなさい、心配かけて」
来店した理由はわかっている。昼間、フリーマーケットで醸した訳ありな雰囲気を察したせいだ。だからわざわざ此処へも足を運んでくれた。そして普段は飲まない───けれどあの頃にはよく飲んでいた1杯を注文し、何処とはなしにノスタルジックな、ホッとするような空間を作ってくれて。優しいのだ。何年経っても。だのに私ときたら、窘める事が出来るような立ち位置ではもはや無いのにいまだにお姉さんヅラをしてしまう。そんな自分が嫌になる。
「色々あるもんね…娘さんのことも…」
陳の呟きが鼓膜に刺さり妮娜は返答しかけたが、逡巡して口を噤んだ。無意識に睫毛を伏せた妮娜へ陳はおどけた調子でグラスを傾け氷をカラコロ転がす。
「王とか樹くんに相談したんでしょ?私には、話したい時に話してくれたらいいから。話聞くだけしか出来ないからね、私は!若い時分からフィジカルは王に任せっきりだし、今だってお店は樹くん達に頼りっぱなしで」
困り眉で茶化す陳に、妮娜は引き結んでいた唇の力を抜いて両端をあげた。黙って聞いてくれることが、時には今夜のように何も聞かないことが、助けになっている。何十年も前から。そう妮娜が思ううちに話題は逸れ、陳はテーブル隅の花瓶へと意識を移した。目線の先には大振りの花束。赤や黄の系統で纏められたそれは木製のインテリアとも調和しており、空間へ暖かく色彩を加えていた。
「綺麗だね。センス光ってる」
「王くんのチョイス。週末の営業終わりに持ってきてくれて…自分も忙しかったでしょうに…」
「王はそういうとこマメだからなぁ。じゃあ、あの可愛らしいやつもそうだ」
言いながら陳が指したのは、カウンターの内側で身を隠しているアザレア。こちらはかなり慎ましいサイズ。妮娜は声を潜めた。
「そう。私が好きなお花だから、これは妮娜さんが個人的に飾る用にって」
「花言葉が‘禁酒’だもんねぇ」
まだ夜の仕事に就いて間もなかった頃。当時勤めていた飲み屋で、各々好みの花を持ち寄ろうという提案に参加した妮娜がアザレアを選んだ際、同僚から‘アザレアの花言葉は禁酒’だと教えられ慌てて店先から引っ込めたというエピソードがあった。それを心に留めていた王の気遣いは、キャッシャーの陰で謙虚に、けれど誇らしげに鎮座している。
「その後から風水も好きになったんだっけ」
「花言葉もそうだし、色も、モチーフも、それぞれに持つ意味があって面白いなと思って。それにしてもよく覚えてるわね?そんなきっかけまで。王くんも色々覚えてるのよ、2人とも記憶力よくてビックリしちゃう」
陳の言葉に瞠目する妮娜。陳はカクテルをコクコク喉へ流し、アイスペールの氷を足す妮娜のたわやかな所作を瞳の動きだけでなぞった。ロマンスグレーのロングヘアが暖色のダウンライトでほのかに煌めく。
自分だって王だって別に記憶力が良いわけじゃない。憶えているのは、貴女との思い出だからだ。でもきっと───私より王のほうが彼女を知っている。私は確かにたくさん話を聞いたけれど、彼女は王と居る時が1番素に見える。この所感は間違っていないと自信がある。多分、王は‘俺は彼女をあまり知らない’なんて捻ているだろうが。皆が思うより悪戯な彼女は、同じように悪戯な王とよく似合う。彼女のそんな無垢な一面を引き出せるのは王だけなのだから。
アイスペールを卓に戻す妮娜と視線が合わさる前に、陳は再度花瓶へと目を向けた。大輪の花に混ざり、まだ開いていない蕾がチラホラ見える。自然に口元が綻び笑みが零れた。
「しかしさぁ、どんどん育ってるよね!若い子達が!樹くんも大地くんもイイコで」
「ふふ、ほんとに。猫ちゃんはますます美人になったし、燈瑩くんもどんどんハンサムになるし」
「東くんだってイイ男だよ」
「あの情圣な感じの子?」
「今は彼女サン一筋なんだってさ」
「あら、微笑ましいこと」
「上くんは良いお兄さんだし、匠くんはセンスよくって…フリマのBGMに選んでくれる曲が最高で、ついリズムとっちゃうんだよね。だから膝がぁ…」
「匠くん、モダンでチャーミングよね。ちょっと昔の貴方に似てるかも」
「えー?私、あんなにイケメンだった?」
他愛ない雑談と軽口に2人で笑う。と───おもむろに陳が立ち上がり妮娜へと手を差し伸べた。スピーカーから流れるのはいつかのバラード。妮娜はパチパチと2、3まばたきをして、フッと笑うとゆっくりカウンターを出てフロアへ降りた。途中で出入口の内鍵をかけ、それから陳へ近寄り腕を取る。ゆるく絡まる指。陳が妮娜の背中にそっと手の平を添えてリードする。スローなチークダンス。記憶が頬を撫ぜた。陳の肩へ軽く頭を預け妮娜は瞼を閉じる。
───みんなとの思い出がそのぶんいっぱいあるってことでしょ?
先刻の大地の台詞。甘い思い出も苦い思い出もある。忘れたいものも忘れたくないものも、忘れてしまったものも忘れられないものも。陳と時折こうして踊ったことは忘れていない。記憶力が良いわけでは、なくて。
看板を閂門にした折に、彼が鍵を閉めなかったのは配慮だ。私への、そして他の客への。この人はそういう人。昔から、変わらず。
「あの頃…楽しかったわね…」
殊の外低い声調になってしまい、妮娜は焦り気味に顔をあげ陳を見る。陳は微笑んで少し顎を引くと、言った。
「けど近頃は‘人生100年時代’らしいから。私達もまだまだ折り返したばっかりかもよ」
クルリと妮娜の身体を半転させ、ほんの一瞬だけ背を抱き寄せると、またクルリと元に返す。
「これからも楽しみじゃない。ね?」
今まで作った思い出と。
これから作る思い出と。
ウインクする陳へ破顔して頷く妮娜。やがて曲が終わり、続けて新たに聴こえ出すメロウなオールディーズ。終わるともう1曲。また1曲。止まない音楽に小さくステップを踏む音と談笑する声は、旧懐と冀望が入り混じる店内で、夜が深まるまで途切れることなく響いていた。