内輪話と心模様・後
落花流水12
「樹くんごめんなさいね…この前くっつけてもらったばかりなのに…」
「全然。今度はもっとしっかりつける」
脚立の下からシオシオ見上げてくる妮娜へ、万屋は作業の手を止め顔を向ける。
店を彩るラスタカラーのポップな飾りたち。妮娜と陳がフリマに着くと、先日に修繕した天井付近のモールがまたもやいくつか取れかかっていた。張り切って店の裏手からボロい脚立を引っ張り出してきた陳だったが、段差をあがる動作が案の定厳しく、‘樹くんが来たらお願いしておいてほしい’と妮娜へ言伝を残して自分はヒョコヒョコとお礼の菓子を買いにいったとのことだ。
パイプの長椅子に控え目に腰をおろす妮娜へ、笑み──と呼べるかわからないやたらと目力の入った代物──を返し作業に戻る樹。取れてくる原因は貼り付けかたというより湿気かも。接着剤の種類を変えたほうがよさそうだな…いっそ釘で打っちゃうか…?テープの芯を指に引っ掛けクルクル回していると、大地がバックヤードから急須と湯呑をのせたお盆を運んできた。妮娜の隣に並んで座りお茶会スタート。のどかな午下。
「【天満會】への支援、どうしようかしら」
雑談の合間に妮娜が挟んだ台詞に、茶を啜る大地が固まった。樹も視線だけを下げて妮娜と大地をチラリと見やる。陽から得た情報はまだ他言無用、燈瑩が聞いてきた話とて同じことだ。彼女の娘のポジションは空や西の様なものだと詮ずるけれど…とにかく…。
「えっと、支援は…ちょっとタンマで。【天満會】からの手紙は、その…」
適切な言葉を選び取ろうとし、されど上手くいかず大地が語尾を濁す。妮娜はフッと口元を弛めた。ひときわ円かな声調。
「大地くんは優しいわね。気が利いて。モテるでしょう」
「え?モテないよ!気も利かないし!哥みたいになりたいけど全然なれないもん」
「哥って燈瑩くん?」
「うん、あっでもなりたいってゆうのはモテるの部分じゃなくって…そこは別に…」
「ふふ。じゃあ大地くん、もしかして好きな子いるんだ」
「へ!?」
予想外の会話の行き先に慌てる大地は、湯呑みを両手で握り、揺れる水面を見詰める。たっぷり10秒程度の間。それから、抑えたボリュームで、‘多分いる’と答えた。曖昧な物言いに瞬きをする妮娜へ、大地は‘多分’についての情調を付け足す。
「なんていうか…その子…いつも一生懸命で、頑張ってて。すごいなぁって思う。見てると、俺も頑張ろうって思えるんだよね」
可愛いと思う。笑顔にしたいとも思う。だがそれ以上に、傍にいると、勇気付けられる。気持ちが奮い立たされる。その想いの全てを引っくるめて、恋と呼ぶのかも知れないが。
得心した様子の妮娜がニッコリと頷く。
「大地くん達は、みんな良い関係性ね」
「妮娜さん達もじゃないの?」
「そう見えるのなら、それは私の周りに居てくれる人のおかげだわ。懇篤な人ばかりだから。私は違うのよ」
相変わらずニッコリとしたまま、けれど薄く哀惜を纏って妮娜は溜め息を吐く。
「私の娘。独り立ちしたっていうと聞こえはいいけど、本当は…出ていっちゃったの。私のせいで」
妮娜が結婚を決めたのはビルを守る為以外の理由もあった。オーナーには連れ子がいたからだ。やっと2本の脚で上手に歩けるようになった頃合いの幼児。存在は妮娜も知っていたけれど、片親に至るまでの細かな成り行きは知らず、ある日に表立った事実は───母親は出産後すぐに、単身、他の男の元へと去って行ったという話。見目と愛嬌を武器に金持ちから金持ちへと渡り歩くタイプの女性で、妊娠中に更なる優良物件を発掘したので棲家を変更することにしたらしい。赤児を堕ろさず産み落としていったのは母の愛などではない。いずれその情が切り札になるかもとの只の打算。‘俺が明き盲だった’‘子供を盾にされなかっただけ良かった’とオーナーは嗤った。妮娜が、自分は恐らく子供が望めない身体なのだと打ち明けた夜のこと。
それだから───決めた。その幼子を、2人の娘として慈しんでいこうと。そして、その通り、5年10年と時を過ごした。なのに。
「夫を亡くしたあと、私、余裕がなくなっちゃって…気持ちの面で。忙しさもあったけどそれは言い訳ね。自分で思ってるほど、自分が器量の良い人間じゃなかっただけ。それで疲れの矛先が家族に…娘に向いて」
瑣末な原因での衝突、日々の苛立ち、次第に互いへ募る不満。よくある親子のイザコザ。けれど水底に溜まる澱は段々と嵩を増し、足を沈み込ませ。とある日ヒートアップした口論はその熱を冷ますことが出来ず、淀みを巻き上げ濁った水中でもがくうち、生涯こちらからは口に出すまいと決めていた真実がポコリと喉を抜けて泡のように弾けた。
「‘アンタは私の子供じゃないんだから’って。もう最悪。本当の母親のこともベラベラ捲し立てちゃって。そうしたら、‘私だって家族だと思ってないし思えない’って返されちゃった。当たり前よね。カッとなったら何でも言っていいなんてわけはないんだから」
あの娘の憎まれ口も、今思えば、可愛いものだったのに。呟くと妮娜は少し目頭を押さえる。ほどなくして娘は城砦を出て行ってしまった。決定的な亀裂が入るその前だって、きっと、厳しく接し過ぎていた。独りでも立派に育ててやりたいと、実母でなくともと、気負い過ぎていた。しこりは消せないまま。溝は埋まらず。連絡も段々と減りそのまま途絶え。‘便りの無いのは良い便り’などと心で唱えて幾年も経った。
「だから娘が【天満會】で頑張ってるなら…こっそり手助けしようかなって。でも大地くんの様子を見るに、何かあるみたいね」
返答に窮する様子の大地が視界の端にチラつき、樹も2人へ向き直った。妮娜は脚立の上の樹を仰いで微笑む。
「樹くんも、ありがとう」
「俺?なにが?」
「本物じゃなきゃ駄目だったかな。家族にはなれなかったかな。仲直りは難しいかな。って思ってたんだけれど」
───周りに居てくれるみんなが俺の家族。
───許せなかったり、しない。
樹のその言葉が温かかった。私も、まだ、家族と呼んでいいのかも知れないと。手を取り合える日が来るのかも知れないと。濁っていた水に、淡く光が射した気がした。
「都合の良い解釈かしら」
眉尻をさげ弱々しく笑う妮娜へ、樹は首を横に振った。
王と陳は、その辺りの背景は以前より承知しているようだ。‘今回もはじめからキチンと相談すればよかったんだけど’と妮娜は肩を竦める。
「でも…私のことを慕ってくれているから…出来ればカッコ悪い所は見せたくなくって。意地っ張りなのよね、昔から。背伸びしたままここまで来ちゃったの。王くんにも陳くんにも、もういくら背伸びしたって追いつけないのに」
歳ばかりとった。足踏みをしたまま。膝の上に揃えられていた指がキュッとワンピースを掴み、花柄の生地に緩くシワが入る。ポロポロ剥がれる妮娜の弱音に、それまで静聴していた大地が湯呑みを置いておずおずと口を開いた。
「えっと…年取った、ってさ…それって、みんなとの思い出がそのぶんいっぱいあるってことでしょ?俺もみんなとたくさん思い出作りたい。妮娜さん達すごい素敵だから、そういう風に俺もみんなと居たい」
携帯に下がるストラップを弄る。カプカプ笑い合うキーホルダー。
「上手くいかなかった相手もいるし。失敗も、もちろんしちゃうんだけど…それでも…何回もやり直して、やってみるつもり」
パッと妮娜へ目線を合わせ朗らかな表情。
「俺も血が繋がってるのは上だけだけど、周りのみんなのこと家族って思ってる。でね、俺、前は上に‘口煩いなぁ!’とか‘全然わかってくれない!’とか超不満ばっかでさ。メチャクチャ言い争いもしたし。けど今は、上が色々ゆう気持ちもわかって。自分の力が足りてないのもわかって。だから…んー…」
纏まらない心情のかわりに、妮娜の手へ自分の手を添える。布地を掴んでいた指がほどかれ掌が重なった。伝わる体温。と、そこへ。
「お待たせぇ!オヤツの時間ですよ!」
路地の奥から響いてきた元気な声に大地も妮娜も振り返った。トタトタ走ってくるのは陳、手には大きなビニール袋。樹は脚立を飛び降り老豆へ駆け寄る。
「俺が持つ。貸して」
「大丈夫だって、もう着くし」
「膝が危ない」
「膝は危ないけど!たまには老豆らしくさせてよぉ!」
反論する陳がプウッとむくれた。妮娜が真似して頬を膨らませたので樹もそれに追従。1人だけやたらめったら空気を取り込みはち切れんばかりに膨張している樹へ、大地が笑って‘龍睛魚?’と言った。
山盛りのお菓子を囲み、和やかに再開されるお茶会。ほんのりと暖かさを増した風が、穏やかな午後の陽光に照らされる街をフワリと柔らかく包んだ。