春宵とチョコレート
落花流水10
花街からは幾分外れ、中流住宅街の方面に近い落ち着いた路地。人の往来もまばらな午前0時過ぎ、建ち並ぶ商店の9割方は本日の営業を終えてシャッターをおろしている。
突き当たりの曲がり角でひっそりと電飾を灯す小ぢんまりとしたスナック。木目の扉が躊躇いがちに引かれ、吊り下げられたベルがカランと鳴って来客を告げた。
「あら、今日はいつもより遅いじゃない」
「明日の仕込みやってたらテッペン回っちゃって。新メニュー考案中だからさ。1杯だけ頼むよ姐さん」
カウンター内で微笑む妮娜へ肩を竦める王。妮娜は‘何杯でもどうぞ’となよやかに返し、棚からロックグラスをひとつ取った。
「まだ本来の閉店時間には遠いし」
「そうだけど。姐さん、禮拜四はいつも早めにあがってるから長居したら悪いかなって」
「物知りね」
「そりゃあね」
「じゃあ閉めちゃいましょ、表向きには。看板ひっくり返してもらえる?」
妮娜の言に応じ、王は入口の電飾を消すとドアに下がった札を‘開門’から‘閂門’にして戸を閉めた。簡易の内鍵を横にスライドしてかける。静かな二胡の音が包む店内。カウンタースツールへ歩み寄って座れば、用意されたグラスの中には既に丸氷とウィスキー。次いで差し出される灰皿と掌に、片眉を動かしニヤリとする王。
「だから閂門にしたんだ?」
「どうかしら。別に隠してはないもの」
ゆっくりしようと思っただけ♪とニンマリしかえしてくる妮娜へ、王はポケットから取り出した煙草をわけて掌に乗せる。
もともと愛煙家だった妮娜は、しかし子供が出来ると同時にキッパリと喫煙をやめ、娘が手を離れたあとも以前のように紫煙を燻らすことは無くなった。けれど───王が店に飲みに来て、なおかつ、他の客が誰も居ない時だけ。その時だけは王より頂戴したものをゆるりとふかす。
そしてそれは、王の中ではどうにも重畳な事柄だった。燃え尽きるまでが1分でも長くなればいいとの想いで、手持ちをシガレットからリトルシガーに変えるほどに。
マッチを擦って火を付ける妮娜の指先を視線で追う。彼女のこの仕草がアダっぽくて好きだ。普段は穏やかだったりシャンとしていたりする雰囲気が、不意に、アンニュイになる瞬間。タバコの先を見詰める伏し目の表情が火種で橙色に照らされるのも。
禮拜四には店を早仕舞いするのは、なにも秘めごとめいた理由ではない。単純に週末が混むため。早目に休んで翌日に備える、ただそれだけ。ちょっと考えれば誰でもわかる。なのに彼女は‘物知りね’なんて特別感を演出してみせ、だからこちらも‘そりゃあね’などと訳知り顔をしてみせた。そういった些細な遣り取りにすぐ擽られてしまう。現実には、自分は彼女をあまりよく知らないと承知しているから、余計に。
「心配かけちゃったわね」
申し訳なさそうな妮娜の声色が煙に混ざって宙を漂った。王はウィスキーをひとくち喉へ流す。
「いや、俺が勝手に気ぃ揉んでただけ。むしろ周りに話広げちまったみたいですまん」
「んーん。もっと相談するべきだったわ、王くんにも陳くんにも。ごめんなさい」
「妮娜さんが謝ることはないでしょ」
緩く手を振る王へ妮娜は笑み、樹にも少し意見を求めたと語る。その際に王の話題が出たことも。
「あなた、‘勝手に話すのはフェアじゃない’って言ってたって。素敵ね」
「そこだけ抜けばそうだけど。全然だよ、中途半端に伝えちゃってるしさぁ」
「それは私が半端な態度をとってたせいよ」
眉を落とす妮娜へ王は再度手を振り、‘でも樹くんは頼りになるからね’と戯けてサムズアップ。妮娜もまた微笑んだ。
「樹くん、あなたの作る鶏蛋仔がすごくお気に入りみたい。大地くんもとっても美味しいって太鼓判押してたし」
「ん?そうそう、センス光っちゃって。俺の店が成功したの意外だった?」
「ううん。焼くのが巴士から鶏蛋仔に変わるとは思わなかっただけ」
「うっ…あの頃のアレはほら、なんというか、抗議活動?の一環?的な…」
「ふふっ!あんなに暴れてたあなたが可愛らしいスイーツ屋さんになるなんてね?わからないものだわ」
「俺は昔から可愛いところあるじゃない!そりゃ陳のほうが可愛いけど。折り紙も上手いですし」
「すぐイジけるんだから」
懐かしい、とクスクス口元をおさえる妮娜へ王も笑う。
懐かしい。昨日のことのように鮮明なのに、気付けばもう数十年が経ってしまっている。光陰如箭、なんてよく言ったもんだ。王は手に持ったロックグラスを揺らす。まだ殆ど溶けていない丸氷が、四方を囲まれた琥珀色のプールで窮屈そうに泳いだ。
「ほんとにな。陳だって俺だってこんな歳んなっちゃって」
「私はもっと上でしょう」
「妮娜さんはいつでも綺麗だからいいの」
俺は自己中過ぎたし陳は優し過ぎたな。自嘲気味にボヤいて酒を呷り、水滴のついた唇を軽く舐めた。暖色のダウンライトを反射し輝くグラスを眺め、煙草を銜える。
「陳も変わんねぇよな…ずっと…」
外見はそれなりに薄くなった、が、裏表なく無邪気な性格は出会った当初のまんま。陳のそういうところを素直に凄いと感じている。いるものの、本人相手に正面を切って褒めることは些か難しい。照れくさいのも当たり前にある。されど、それ以上にあの天真爛漫さが羨ましいのだ。もっと真正直に吐露してしまえば───悔しい。
妮娜の様子を陳へ尋ねないのは‘心配をかけたくないから’と樹へは言ってみたが。本音ではきっと、どことなしの悔しさがあったせいだ。陳のほうが支えになれる。そう拗けてしまう。なんだか負けた気がする、勝ち負けの問題ではないのに。そんな乳臭い感情がいちいちチラつくあたり、歳は食っても中身は青二才。結局まだまだガキなのだ。
突然、視界の中、グラスの横へスッと仰向けの掌が出た。灰皿の隅には揉み消された短いフィルター。いつの間にやら有線のチャンネルも変わっていた、響いているのはあの頃に飽きるほど聴いたポピュラーソング。王は目線と口角をあげる。
「連続は身体に悪いぜ、姐さん」
「そもそも悪いでしょ。いいじゃない偶になんだから」
悪戯な面持ちの妮娜は王が銜えていた1本をピッと掠め取り、‘かわりにこれどうぞ’と某かを同じ場所へ戻した。鼻腔にフワリと広がる甘い香り。
「…チョコ?」
「そ。オレンジピール。この前花墟道にお花を選びに行ったんだけど、決めきれなくてお菓子買って帰ってきちゃったの」
ウイスキーのあてにしてちょうだい。言葉と共に目の前に置かれた可愛らしい小箱には、細長い茶色のチョコレートが詰まっている。楊桃もこんなアレンジもアリかも…考えながら王はバーテーブルの端で出番を待っている空の花瓶を見やった。
「次に来るとき、花束選んで持ってこようか。気に入ったら飾ってよ」
センス光らせちゃうから期待してて。オランジェットを齧りつつ、先刻と同様の物言いでフザける王に、妮娜は期待してるわねと声のトーンを高くし頬を綻ばせた。