駘蕩と相談事・前
落花流水4
穏やかな陽光、そよぐ温い風、緩く流れる広東ポップス。ほんのりラテン調にアレンジされた曲に耳を傾けつつ入り口の装飾を貼り直す樹。レゲエなフリマは本日ものんびり営業中、出勤しているのはいつものメンツ───万屋、DJ、それに老豆。
「樹くんごめんねぇ…私が不甲斐ない膝なばっかりに…」
「全然。俺こういうの好きだし」
脚立の下からショモショモ見上げてくる老豆へ、万屋は作業の手を止め顔を向ける。
店を彩るラスタカラーのポップな飾りたち。先刻、天井付近のモールがいくつか取れかかっているのを見つけた陳は修繕しようと店の裏手からボロい脚立を引っ張り出してきた。張り切って腕をまくりステップに足をかけたものの───間髪入れずにまたストンと元の位置に帰還。口を横に結んで、膝へと両手を置きサスサス擦っている。段差をあがる動作が思いのほか厳しかったのだろう。痛風。
バトンタッチした樹は軽々と最上段へ登りお仕事開始。陳は応援団にジョブチェンジ、謝ってみたり励ましてみたりやんややんやとチアリーディング。
「老豆、腰も痛くなるんじゃない?ずっと上向いてたら」
「だって、頼むだけ頼んでそっぽ向いてる訳にもいかないじゃないか」
「別にそれはいいよ。でも腰痛はよくない」
「優しいねぇ樹くんは」
樹の心配りに陳がクフクフ笑う。ならお茶でも淹れてこようかとウインク、意外にフサフサな睫毛が揺れた。樹もウインクを返す。バックヤードへ引っ込む陳、聞こえてくる匠との雑談。シニアが集まる音楽同好会のメンバーが演奏した二胡音源を今風にリミックスし、店内BGMに使えないか?と相談しているようだ。
老豆もなかなか顔が広いよな…王より聞いた昔話を思い返す樹。‘アイツはのんびりしてて和やかな奴’‘結構モテたよ’。親しみやすさは予てより。その人柄が人望を集めるのか…何となく、相手の毒気を抜くような、そんなオーラが陳にはある。
装飾を数個くっつけ直した頃、茶器をお盆に載せた陳がトテトテ戻ってきた。パイプの長椅子へ置くと自身も腰掛け、急須を傾けて熱々の茶を湯呑みへ注ぎ、ひとくち。薫りを楽しみニパッと笑う。
「うん!東くんがくれたこの文山包種、ほんとに美味しいねぇ!」
「この前、鳳梨酥も一緒に食べた。内湖樓で売ってた黒いやつ。いい感じだった」
「あら、じゃあ買ってこようか?もうすぐおやつ時だし」
樹のスイーツ情報に乗っかる陳。張り切って宣言し降ろしたばかりの腰をあげるものの───間髪入れずにまたストンと元の位置に帰還。口を横に結んで、膝へと両手を置きサスサス擦っている。急に立ち上がる動作が思いのほか厳しかったのだろう。痛風。
「老豆、膝痛いんでしょ?俺行ってくる」
「いやいや、私が言い出したんだし私が行かなきゃ!今樹くんは装飾やってくれてるじゃない、散歩も健康に良いからね」
陳は樹の打診へ首を横に振り、グッと拳を握る。ガッツポーズは気合い充分なものの、気合いで尿酸はどうにもならない。きっと鳳梨酥のみならずたくさんお菓子を買ってきてくれるんだろうし…帰り道の荷物を加味すると1人で送り出すのもな…悩む樹。と、奥でラジカセをいじっていた匠が‘俺ついて行こっか’と立候補。気を遣わないでと再度首を横に振る陳へ近寄り、ちょうどタバコが切れたから♪と肩を組む。樹はついさっき匠が新品のソフトパックを1箱開封したのを目撃していたが、それは言わずに‘行ってらっしゃい’とだけ声をかけ、店を出て行く2人の背中へ手を振った。
「大家好。お邪魔してもいいかしら」
少し後、梯子を降りて茶を飲みつつ休憩をとっていた樹は聞こえた柔らかい挨拶に振り返る。声の主は美味しそうな手土産を持った妮娜だった。先日陳と連れ立ってやってきて以来、彼女は時間を見つけてはこうして甘味片手にちょこちょこ遊びにきてくれる。店内を覗く妮娜へ、樹は‘老豆は匠と買い物中’と説明。
「多分すぐ帰ってくる。待つ?お茶あるし。時間があれば」
「そうね、お言葉に甘えて一服させてもらおうかな」
快諾する妮娜はパイプ椅子の端へ慎ましく着座。楚々とした佇まい。‘妮娜姐さんは客の野郎共の憧れでさ’‘俺も陳も例に漏れてなかったよ’───またも王より聞いた昔話を思い返す樹。隣に座り、新しい湯呑みへ茶を注いで、控え目に尋ねた。
「俺よく王さんの鶏蛋仔屋行くんだけど。3人って昔から仲良いんだね」
「あら、王くんの?美味しいって評判なんでしょう」
王くん。陳くんに続き、こちらも新鮮な呼び名。思い出話を聞かせてもらったと答える樹に微笑み、妮娜は製作した紙細工たちが並ぶ壁際のラックを指差す。
「若い頃に勤めてた飲み屋さんでは、日系のお客様も多くて。流行りものや文化を少し勉強してね、陳くんや王くんとも折り紙でけっこう遊んだわ。誰が1番上手に折れるか!なんて言って」
陳が殊のほか器用に折るので、どうしてもヘンテコな仕上がりになってしまう王が毎回ふてくされていたと妮娜は愉快そうに語る。そういえば折り鶴の話題を出した時、王の返答がちょっぴり濁っていた気がする…そのせいだったのか…?思いつつ樹は、先ごろお裾分けで頂いた紙細工を玄関へ吊るした事を報告。妮娜が嬉しそうに手を叩く。
「緑色の田雞さんね。緑には癒しの効果が期待できるの、五行の元素のひとつでもあるし。樹くんは緑色が似合うものね」
その言葉に樹は服の襟元をつまむ。似合うかどうかは気にしたことがなかったが、物を選ぶ時に──自分の名前が名前なので──緑系統の色をチョイスしてしまう節はあった。普段使いの帽子や鞄に、羽織っているベストもそう。
「確かに俺、緑ばっか買ってるかも。気が付かなかったけど。似合う色で良かった」
「いいのよ、もしも似合わなくっても。好きなものを身に着けるべきだから」
目尻を下げる妮娜。なるほど、これも自分の心が‘素敵’と感じた物を選べば良いってことか…金魚しかり…納得し、周りのメンツの服装を惟みる樹。東はよく赤着てる、猫は黄色が好きっぽい。燈瑩はだいたい黒。大地の好きな色わかんないな?でも粉紅とか合いそう。上は…なんだろ…饅頭にちなんで白、いや、茶色か。中身の餡子。ん?平安饅頭はハスの実餡だからやっぱり白?そんなことない、小豆餡だってとっても美味しい。奶黃も最高。次の長洲饅頭節でもたらふく食べたい、大食い大会へ出場するかは未定だけど───
「樹くん。王くんから他にも何か聞いた?その…私が、トラブルを抱えてるとか…」
挟まれた妮娜の質問に、樹は平安饅頭へと飛んでいた意識を引き戻す。こちらを見詰める妮娜はどうにも申し訳なさそうな雰囲気。
「トラブルがありそうとは聞いたけど、内容は聞いてない。店長、【天満會】がって言ったとこでやめてた。‘勝手に人の事情喋るのはフェアじゃない’って。でも心配はしてるみたい」
「そうなのね。ふふ、王くんらしいわ」
樹の返答に妮娜が口元を押さえてクスクス笑う。表情に屈託はないが、されど、申し訳なさそうな雰囲気は変わっていない。樹は妮娜へ向き直った。
「えっと…もし俺が役に立てることあったら、ゆって欲しい。俺、店長にも老豆にも仲良くしてもらってるから。だから…何か出来るなら力貸したい」
気が向いたら、教えて。そう締め括る樹に妮娜は暫く考える素振り。‘そんなに大袈裟なことじゃないんだけれど’と断りをいれ、遠慮がちなボリュームでポツリとこぼす。
「最近ね、お手紙が来るの。【天満會】から───娘の名前と一緒に」