相憐と拉钩・後
不撓不屈16
一瞬、時が止まった気がした。
スローモーションに写る風景は映画のワンシーンさながらで現実味がなく。倒れ込む康を支えようと手を伸ばした大地は、支えきれずバランスを崩して共に地べたへと転がった。慌てて体勢を立て直すと、突っ伏したままの康を助け起こし、上半身を膝に乗せるも───抱えた両手がズルッと滑る。焦って康のシャツを掴んだ。掌にベッタリとへばりつく赤い液体。ズボンが生ぬるく濡れていく感触。鼻をつく鉄の臭い。
銃声の方向に振り返った藍漣が即座にグロックの引き金を絞る。路地の入り口あたり、弾を喰らった男が2人ほど崩折れた。その時には既に走り出していた彗も、残りの1人に飛びかかり脳天へと三節棍をめり込ませる。振りかぶってもう1発。また1発。再度1発───…
「彗、やめろ」
何度も三節棍を振り降ろす彗を、駆け寄ってきた藍漣が後ろから抱き締めて制止した。既に頬骨や鼻が陥没し様相が変わってしまった男の頭へむけトリガーを引く。乾いた音と共に飛び散る、よく分からない汁や脳味噌。肩で息をする彗。藍漣はそのまま背を抱いていた。いくらかして呼吸を落ち着けた彗は、藍漣の腕を離れ踵を返し、大地と康へ足早に近付く。
仰向けの康は眼球をゆっくり左右に動かし、自分を抱え込んでいる大地を見て、それから立ち尽くす彗を見た。唇が形作る‘ごめんね’。大地はギリッと奥歯を鳴らす。
そんなことはいい。ごめんだなんて、そんなことはどうでもいい。それより、それより────あぁもう!!どうして血がこんなに出るんだよ!?
康の身体に数箇所あいてしまった穴を、必死に掌で押さえる。彗も屈みこみ、羽織っていたパーカーを脱いで他の傷口へとあてた。みるみる真っ赤に染まる真っ白なフード。圧迫が足りないのか。いや、違う。違う。この傷では、これでは。
「姐姐…東呼んで…」
脇へ立った藍漣は容態を確認し、彗の呟きに返答を躊躇った。彗が声を荒げる。
「東呼んで、早く!!お願い!!」
言っている側から血溜まりは広がっていく。間に合わない、どう見ても。例え今ここに東が居たとしても。誰しもわかっていた。わかっていたけれど、彗の叫びに藍漣は東をコールした。彗の脳内で悔恨が渦を巻く。
逃がした奴らだ、撃ってきたのは。逃がさなきゃよかった。追いかけるべきだった。逃がしたからこんなことになった。逃がしてってゆったのは康だけど、逃がしたのは彗だ。康は‘追いかけないであげて’ってゆったけど、けど、だけど。
「…お前のせいじゃないよ」
藍漣が言った台詞に、それでも彗は、顔を上げられなかった。黙って唇を噛んでいる大地の頬に筋を作って流れ落ちた水滴も、見ないフリをして、ただ…拳を握り締めた。
その拳に大地が触れた。今や殆ど力を失くした康の手にも触れ、3人の小指を優しく絡める。康の頬にも描かれた涙の筋の上に、また新たな雫を弾けさせながら、しかし大地はどうにか笑顔を作り康を励ました。
「大丈夫だから。絶対、助けるから。すぐ、治してくれる人、くるから…だから…」
喉が震えるのを抑えられない。クソッ。シャンとしろよ。康を不安にさせたくないんだ、気休めだとしたって。俺は‘助ける’って約束した。康は信じてくれようとした。その約束を嘘には出来ないんだ。嘘になってしまうとしても、それでも───あと少しの時間だけでも。
康が大地へ何か応えかけ、彗の眼差しに口を噤んだ。飲み込んだのは恐らく再三の‘ごめん’。八の字をよせる康、いつもの困り顔。こんな場面でも現れる、普段通りのらしい仕草に彗も笑んで、康の額を指でつついた。
────なんで謝んのよ。
午後の教室。机を囲み丸くなって、あーでもないこーでもないと、課題を片付けつつ作戦会議をして。単語を書き間違え謝る康のデコを、シャーペンの尻でつついて。他愛もない日常のひと幕。まるであの会話の続きでもしているかのごとく、路地裏の陰鬱さも血塗れの身体も重なる死体も何もかもを無視して、康も笑った。
寛かな空気がフワリと城砦を包む。揺れる揃いのキーホルダー。柔らかく巡る風が最期の一呼吸をさらうまで、大地も、そして彗も───固く繋いだ小指を離さずにいた。