相憐と拉钩・前
不撓不屈15
「彗、道に詳しいんだな。凄いじゃんか」
「バイトの配達がね…わかるかどうかはエリアにもよるけど…姐姐、ここ右!大地も!」
藍漣の称賛へ謙遜しつつも得意顔の彗に先導され、路地を駆ける。康が送ってきた微信はSOSの絵文字プラス、建物名。‘そこなら場所を知っている’と言うが早いか家を飛び出した彗の後を追う大地に、事態を心配した藍漣もついてきてくれた。
返信への返信は無くメッセージはそれぎり。走りながら画面を確認し、携帯を握り締める大地。なにがあった?今どうなってる?間に合うのか?心音がやかましいのは走っているせいだけじゃあない。その背を藍漣が軽く叩いた。大地は頷き、呼吸を整え再び全力で地面を蹴る。それを横目に‘もうすぐ着く’と呟いた彗が十字路を折れるやいなやものすごい剣幕で叫んだ。
「なにしてんのよ!!」
道の奥、こぢんまりとした広場とも呼べない大きさの袋小路。地べたで丸まる1人を取り囲んでいる複数人。瞬時に三節棍を組み立てた彗は一気に距離を詰めると、突然の怒鳴り声に呆けるチンピラ連中を次々になぎ倒す。ボコられていた少年が上目遣いでオドオドと彗を見た。もちろん、康だ。目が合って眉根を寄せる彗に怯えた様子でまたオドオドと瞼を下げる。
一撃を喰らい転がった輩が、身体を起こすと拳銃を抜いた。しかしその銃は飛翔してきた何かに弾かれ手の平より零れ落ちる。振り返った男の視線の先にはパチンコを構えた大地、装填される次弾、ピカピカの鉛の粒。男は取り落としたピストルを拾おうとするも、グロックを向ける藍漣の姿を認め動きを止める。彗は康の眼前にしゃがみ込んだ。
「どーゆー状況な訳、これ。派手にやられたわね」
腫れて赤黒くなった目の周りに切れた唇の端。康は口元の血を袖口で拭う。と、注意が逸れたと察したチンピラ共は手近なビル内に駆け込み逃走。首を回した彗がバッと腰をあげ臨戦態勢でがなる。
「待てコラぁ!!」
「や、やめて!追いかけないであげて!」
いくぶん力のこもった声調の康へと、怪訝な顔で意識を戻す彗。大地も康に走り寄る。無事──とも評せないが──で良かったと言いかけた大地を遮り、‘ちゃんと説明しろ’と彗が不機嫌に放った。康は途切れ途切れに紡ぐ。
読み通り、康は、諸々の誘拐事件のいわゆる‘パイプ役’。親の看病で忙しいというのは虚言。バタついていたのは彗の留守を狙った計画が樹に潰され、半グレ共にドヤされた挙句、殺られた駒の代替品の調整に奔走していたせい。橋渡しが上手くいかなくなるにつれ仲間から責められることも多くなり追及はエスカレート。チーム内での暴力沙汰にまで発展する始末。
「で?どーしよーもなくなったから大地にヘルプしてきたの?アンタさぁ、ちょっと都合よくない。ロクに相談も連絡もしてきやしないでこーゆーときだけいきなしさぁ」
吐き捨てた彗の圧に康は押し黙る。俯く康の傍らに膝をついた大地が‘もっと早く話してくれたら’と執成すように語りかけると、康のオーラが変わった。忙しなく動く眼球と途端に上がるピッチ。
「話して話して…って…そんな簡単に、人、信じれるの?人を踏み込ませられるの?踏み込めるの?話したくないことだって話せないことだってあるのに…かっ、勝手だよ、そんなの」
その康の態度に彗は片眉を吊り上げますます機嫌を損ねる。
「はぁ!?勝手ゆってんの康でしょ!!大地はずっと心配───」
「いいよ、彗」
今度は大地が遮った。康には康のこれまでがあり、考えがあり、言い分がある。誰も彼もが己の一切をおいそれと曝け出すなどとは土台無理だ。そう考え、大地は真っ直ぐな言葉を真っ直ぐな眼差しに乗せた。
「わかるよ。康の気持ち。けどさ、俺、力になりたいから。もっとほんとのこと教えてほしい。しっかり聞くから」
彗は舌打ちして首の後ろを擦る。康は下唇を噛み締め逡巡し、それから再び、途切れ途切れに紡いだ。
元々香港で病気の母親と暮らしていたこと。困窮した生活で治療費が払えなかったこと。盗みや小さな詐欺を繰り返し金を稼いでいたこと。世話になっていた闇医者から‘友達を連れてくればお釣りも出してやる’と子供の人身売買を度々に持ち掛けられていたこと。窃盗を常習するうちマフィア崩れに目をつけられ捕まったこと。そこで医者から振られた人身売買の話をしたら釣銭目当ての半グレと共にそちらの商売へ手を出す羽目になったこと。けれど見返りで医療関係者から必要な薬剤を貰えるようになったこと。だが世話の甲斐なく母は死んでしまったこと。製薬会社の人間や内部をいくらか把握していたせいで工場強盗にひと役買わされたこと。金の要求ばかりしてきていた悪徳な医者もその時に死んだこと。入手したドラッグを捌く目的でグループごと九龍へ来たこと。子供にアタリをつけたり周辺情報を仕入れる為に寺子屋へ通い始めたこと。医療代が不要になったので金は入れば入るだけ余ること。だから物も買えるしそこそこの棲家も用意できたこと。
家族もなく、他に生きる道もなく、馴れ合いの仲間に言われるがまま仕事と日々を重ね。
「僕は…大地のことも、み、見捨てて…」
震える声。樹と居た時の襲撃の件か。本人が‘見捨てた’というのならきっと真意としては正しいのだろうが、大地にはその言い方は何となく、違うように感ぜられた。
俺を助けるのは康の仲間へ対するそれなりの裏切り。裏切りは自殺行為に等しい、身寄りもなく、薄暗い社会の片隅の小さな世界で暮らす者にとっては。もし康があの時点で俺達のほうを仲間だとして庇ってくれていたとして。そこで生じた不都合からの軋轢に、俺が康を庇い返せるかと問われれば、最大限の努力をしたとて断言は出来ない。康の行動を責める気にはどうにもなれなかった。
「それもいいよ。俺、怒ってないし…」
「よくないよ!!許さないでよ!!」
大地を制した康は立ち上がり頭を振る。
「中途半端なんだよ僕は、自分で決められないんだよ、大地達の仲間になりたかったからパチンコの玉とかあげたのに、っ、けど襲撃にも協力するし…どっちつかずで…」
‘捕まったって殴られたって、みんなのことをペラペラ喋るような人は俺達の仲間にいないもん’。羨んだせいなのだ、あの時に暗い顔したのは、この台詞を。自分の仲間は自分の益にしか目のいかない奴ら。自己中心的に相手を売るような。そして結局、自分もそうだった。
つまるところ金。治療もそう、生活もそう。金。金。自分には力が無い、だから金が力、金があれば薬も買えるし仲間も居てくれる。金を払えば。プレゼントを渡せば。金、金金。金金金───
「でも…許されないよ、っ…」
泥で汚れた康の頬に、目尻から伝った涙が筋を作った。筋は何本にも増えポタポタ垂れると土を湿らせ黒いシミになる。大地は思考を巡らせた。
許されない。そうなのかも知れない。されど間違えたって、何度失敗したって、中途半端だったって────やり直せないことはないはずだから。
「康は、それでも、俺達のことも‘仲間’だって思ってくれてたでしょ」
「駄目だよ…ペラペラ喋った僕には、仲間の資格、無いよ…」
「自分自身を守るのも当たり前じゃん。けど康は悪いなって思って、今も迷ってくれてるんでしょ?だったらそれでいいよ。今、康は康の事ちゃんと話してくれたじゃん。言ったでしょ?ソッコー助けるって」
思ったままを伝える。上手くないのは承知だ。基準だって独善的。これはイイ、あれはダメ、みんな贔屓で決めてるだけ。だけど。
「どうしたらよかったかなんて、わかんないしさ。康のこと許してくれない人も居るだろうし。やったことだって取り消せないけど。でも…今度は俺も、一緒に考えるから。友達だから。…ね?」
言って、小指を康へと向けた。暫くの静寂。藍漣も彗も指切りの行方を見守っていた。
康の手が微かに動く。それからソロソロと、小指だけを残して拳を握り込んだ─────その時。
数回の耳障りな破裂音が、聳える違法建築のコンクリートへと、無機質に反響した。