パッキングとSOS
不撓不屈14
襲撃されたのは製薬会社。香港僻地の工場内から、あらゆるクスリをゴッソリやられた。深夜の犯行だったので工員達は帰宅しており難を逃れ、たまたま用事で内部に居残っていた関連施設の不運な医者が小競り合いに巻き込まれチョロっとお陀仏に。被害額はザッと200万香港ドル。
「ずいぶん盗ったな」
鴛鴦茶香る午後の【東風】店内、猫がソファでポワッと煙を吐く。向かいに座る匠も煙を吐きコテンと首を横に倒した。
「ちょっと前の事件だっけ、ニュースで50万香港ドルとか言ってたじゃん」
「認可薬の売上が50万なんでしょ。残りは無認可の儲けだから被害届出せないのよ」
樹のマグカップへポポンと角砂糖を落としながら東が笑う。無認可の儲けとは違法薬物のこと。小遣い稼ぎをしているのは何も魔窟の人間だけではない、香港全体にドッシリ根を張る巨大な黑社会。マグカップの底に沈澱する魔法の白い粉を匙羹でかき混ぜる樹、マイルドドラッグ。
「俺も改めて九龍城のチンピラ洗ってみてんけど。今の誘拐騒ぎの元んなっとる奴らが、その製薬会社叩いた奴らっぽいねんな。最近城外から流れて来よったグループやから情報薄かってん。富裕層と繋がっとったみたいで、九龍でもそんエリアうろついとるらしいわ。ほんで…大地の友達、やけど…」
東が仕入れたネタに手持ちのピースを組み合わせてパズルを作ったものの、完成品のお披露目はしづらそうな上。大地はテーブルに頬杖をついて、言葉を濁す上を見詰めた。
寺子屋は休校だが宝珠は講義があるとのことで、彗は手持ち無沙汰な殷と夏慤花園あたりで遊んでいる。私用で市内へ出掛けた藍漣と後に合流するらしく‘夕飯は蓮の店で!’と微信が来ていた。康のトークルームは未読のまま。
「そん友達が、拐う相手にアタリつけとるっちゅうんは…正味…ありそやな。パクった薬ハケさすんに、なんや子供使てるぽくて」
「ん?子供にハケさす?」
「パッキングしてるみたい」
差し挟まれた匠の質問を東が引き取った。ボディパッキング、通称コークミュールは、ドラッグを内密に持ち運ぶパックとして‘身体’を使う荒業だ。ブツを詰めた包みを飲み込んだり体腔に隠したりして国境や検問所をすり抜ける。ボディパッカーの中には1度に数百もの小袋を胃袋や腸に収納し密輸する猛者も存在。無事に任務を遂行出来るかは運次第、仕舞いこむ薬物の総量は致死量を遥かに超えている為、体内で包みが破れれば急激な過剰摂取で中毒になり死に至る。
とにかく───その要領で、捕まえた子供へパケットを大量に仕込んで相手先に送るのだ。ふたつの品物を同時に捌けて一箭双雕。お得なスペシャルビジネス。
「大人のほうがたくさん詰めれるんじゃないんだ」
合法薬物が溶けきった飽和水溶液を啜る樹が借問。お猪口の紹興酒よりマグの港式奶茶、マグの港式奶茶よりLサイズの珍珠ドリンクのほうがキャパシティはある。荷拵えだって同じでは?
上に貰ったパックの不飽和水溶液へストローをさす燈瑩が肩を竦めた。
「裏をかいてる、ってことじゃない?箱ごと売り飛ばすって考えたら小さい子の方が値段つくし。あとは捕まえるのも言う事きかせるのも楽だしね」
薬物がしこたま盗まれれば、香港警察は当然密輸ルートに目を光らせる。コークミュールの箱は基本的に大人、ならば逆に幼い子供を使えば万一の事態に陥った際に追及を逃れられる確率は上昇する。
樹や殷が倒した人間は所謂カモフラ。本命の売買に当局の意識がいかないよう、適当な半グレへ普通の人身売買の案件を持ち掛けていた。医療関係は上流階級の繋がりが多い、羽振りの良い買い取り先の用意はさして難しくもない。これは燈瑩も外のルートを伝っていくらか裏取り済み。
つまりそちらの誘拐商売は隠れ簑、使うゴロツキも捨て駒。やり方の強引さも真っ昼間の犯行という警戒心の薄さも特に知ったこっちゃなし。裏で肝心の取り引きが滞りなく進めばそれで恭喜、‘アッパーは仕事が丁寧だよねぇ’と東が皮肉めいた物言い。大地は頬杖をついたまま一連の話を聞いていた。
「まぁ…そういうことなら、わざわざ突っつく必要もねぇな。捌くモン捌きゃ九龍にもガキにも用は無くなんだからよ、言い方悪ぃけど。近いうちにゴタゴタも収まんだろ」
その連中をどうこうする訳では無いと猫の声。原因が判明したとて、問題を落着まで導くのは埒外なのだ。周囲に降りかかる火の粉は払えど街中の火消しは請け負えない、当たり前の話。対策としては警戒の手を広げるだけと煙を輪にする。宙に溶ける円環。
上が窺うような眼差しを向けてきたので、大地は白煙を追っていた目を伏せ、ポソッとこぼした。
「俺は…何も言えないよ…」
康について。
性質がなんであれ、属するグループは本人にとって‘仲間’と呼べる類のもののはず。どう付き合いどんな判断を下していくかは康自身が決める事。ただ───康がそれをやりたくてやっている、そういう風にはどうしても見えなかった。大地は眉間に皺を寄せる。
この状況ではもはや、母親に関する事情も嘘なのだろう。けれど…あの時。最後に話したあの時に、康は何かを言いかけた。その‘何か’がもしもSOSであるなら…そんな可能性という名の願望を、どうにも捨てられない自分がいた。
「ダチの事が気にかかんならよ。お前はお前でやってみろ、納得いくやり方で」
猫が投げた台詞へ、大地は伏せていた瞼をあげた。納得いくやり方?俺が?迷惑じゃないか、そんなことは。康へのイメージだって勝手な私見に過ぎない。言ってしまえば全ては俺の‘ワガママ’なのだ。ソロリと不安気に目線を動かし部屋を見回す。しかし誰もが、上でさえ、その猫の意見に賛同する表情を見せてくれていた。
───定めし、仲間は見棄てないよ。
スマホで寄り添うストラップ。‘仲間’。そうかな。そうであってほしい。俺だって、きっと康の仲間で在れているはずと、信じたい。
「…うん。次に会ったら、もっと…ちゃんと訊いてみる。ありがとみんな」
このまま終わらせたくはない。決意のこもる大地の言葉に、上が‘せやな’と短く応えた。明らかに心配性かつ過保護な気持ちを無理に抑えて出したことが丸わかりな声音だったものの、キリッと某熊猫さながらの凛々しい顔付きを作る上へ、弟は目尻を下げ明るい笑顔を返した。
されど───思い通りに進まない現実は、康の足取りを追わせてはくれず。ゆっくりと着実に日々は過ぎ、ほどなく宝珠が香港での座学のコースを修了するという段階になっても未だ連絡は途絶えたまま。鳴らない携帯をタップする毎日を送る大地は、今日も今日とて探偵団事務所へ赴いてはソファに転がり盛大な溜め息。
窓から吹き抜ける涼やかな風。ベランダより聞こえてくる彗と藍漣の会話。藍漣は近々、上海へ発つ様子。彗が付いていくかどうかをひたすら悩んでいる…康のことが解決出来ていないからだろう。宝珠と殷も香港を離れてしまう、会おうとすればすぐに会える距離ではあるが…今夜は借家の中をいくらか整理するので九龍城にはまた明日あたり顔を出すと言っていた。
日課の微信を康へ送信。画面に並ぶ何日分もの‘哈囉’スタンプと、一方的なくだらない雑談。
このまま終わらせたくはない。そう、思っているけれど…駄目なのだろうか。康の中ではもう、終わってしまったことなのだろうか。再三の溜め息。意味なく文章をスクロール。指の動きに合わせ移動するメッセージの吹き出しを無為に眺めていた大地は───
「あっ!!!!」
大声をあげてガバッと起き上がる。意識を捉えたのは、まず、突然シングルからダブルに変わった吹き出しの隅のチェックマーク。要するに───‘既読’。
そして、間髪入れずに飛んできた、SOSの絵文字だった。