蛋撻と葡撻
不撓不屈2
始まりは宋時代に遡る。
かつてここ一帯には数多の香木が生えており、それを輸出する港が香港仔に開かれた。香港という地名も‘香木が集まる港’の意から命名したとされる説が最も有力。
付近の海域に現れ治安を脅かす海賊への対抗策の砦として九龍烽火台を設置。軍事要塞を作るも、その後阿片戦争やアロー戦争の影響や北京条約により九龍半島は割譲。清国領内でありながら英国領に取り込まれる。しかし辛亥革命に端を発して中華民国が樹立し清朝は滅亡…九龍城の施設管理は英国と中華民国の互いの抗議で実現できず膠着状態に陥り…日本軍の占領によって管理交渉は中断…中国内戦も激化、難民が雪崩込みバラックが建ち始め、過度な居住人口から人々は次第に無計画な増築を重ね巨大なスラムが出来上がっていき────
「ふぁ…」
昼食を終えて午後の授業。机に頬杖をつく彗は、手の平で口元を隠し欠伸を噛み殺した。眠い。お腹が膨れたあとの歴史の話は特に。嫌いじゃないけど、いかんせん眠気が勝る。とはいえ朝イチも朝イチでキツい…2限目くらいが妥当なのかしら…?どうでもいいことを考えつつ、うつらうつらしていると───斜向いの席から大地が机上へコソッと何かを投げてきた。丸まったノートの切れっ端。広げると‘帰りに蛋撻屋へ行こう!’と走り書き。彗は指先でハートを作って返事をし、メモを丸め直して後ろの席の康へと肩越しにパス。少しすれば、コンコンと天板を小さく叩く音。OK啦。彗は重い瞼をどうにか開き、どのタルトを買うか頭を働かせて眠気を飛ばし終業の合図を待った。
「大地、お昼食べたばっかなのによくお腹に入るわね」
「デザートは別腹!樹も言ってるじゃん!」
「樹は規格外でしょ。彗はテイクアウェイしよっかなぁ、姐姐のぶんも」
「今日はデートしてるんだっけ」
「そー!マジ腹立つあのモサメガネ!」
放課後になり、雑談を交わしながら裏路地を進む彗と大地。その後ろを黙ってついてくる人影に大地は振り返る。
「康はどうする?」
「ん…僕は、何でもいいです…」
「じゃあ食べ歩こっか!ね!」
言うが早いか、大地は控え目な笑顔を見せる康の手を引き駆け出した。次の角を曲がれば店はすぐそこ。そのまま走って店頭のショーケースまで辿り着き、焼き立てホカホカのタルトを覗き込む。
ビスケット生地の香港式とパイ生地のマカオ式、前者はイギリス風で後者はポルトガル風。昨今の流行であるベイクハウスの種類はパイ。この店のものはカスタード部分にシュガーやココアパウダーで様々なイラストが描かれていて可愛らしい。ゆっくり歩いてきた彗も大地の隣に顔を並べる。
「生地だけでも迷っちゃうのに、トッピングも柄もたくさんあるのね」
「俺もう決めた!唔該、農場牛乳牛油皮の蛋撻に唂咕粉を大熊貓にして港式茶餐廳奶茶つけて下さい!奶茶は凍の走糖で!」
「は?呪文?」
大地の注文に彗が眉を曲げる横で、康がおずおずと財布を出した。
「あの、僕が…みんなのも買うから…」
中から小銭やドル札を取ろうとする手を大地が急いで制止。
「や、自分のは自分で買うよ」
「だって…誘ってもらったし…」
「誘うのは別に普通でしょ」
「アンタいつもお金払おうとするじゃない」
ハンッと鼻を鳴らす彗が腕組み。それから口角を吊り、満を持した様子で放つ。
「ってゆーか。今日は彗が奢ったげる」
このところ、彗は樹から振られる‘何でも屋’の案件を少々手伝っていた。といっても黒い仕事はもちろんナシ。瑪理の一件の際に街を駆け回る姿を見た樹が‘いつまでも姐姐におんぶに抱っこという訳にもいかない’とボヤく彗へ普通の郵便配達や住民の依頼を回すようにしたのだ。加えて匠もクラブや音楽イベントでのスタッフ不足時に声を掛けてくれるようになり、彗はちょこちょこと入ってくる収入を生活費へと充てているらしい。
「こないだ富裕層エリアの近くでやったフェスのバイト行ったらさ、けっこうお給料貰えたのよね。だからタルトくらい買ったげる」
‘彗が1番大家姐だから’と得意顔。康は瞳を白黒させた。
「え、そ、そしたらいらないです…僕、食べない…」
「はぁ!?せっかく彗が買うつってんだから食べなさいよ!」
「じ、自分のぶんは自分で買う、って…さっき大地も言ってた…」
「これはそういうことじゃないの、わかんないヤツねアンタ!香港式生地でいい?いいわよね!」
捲し立て、レジへ進む彗。背中を見送った大地が縮こまる康の耳元へ口を寄せる。
「こーゆー時はさ、カッコつけたいってことだから奢ってもらったほうがいーんだよ」
「でも…申し訳ない…」
「じゃ後で彗にタピオカティー買お?俺と割り勘で」
悪戯にウインク。戸惑いつつ頷く康は、それでもまだ視線を彷徨わせている。
康は長安街に校舎が出来てから寺子屋へ通い始めた同年代の少年だ。大地と彗が新しい教室を偵察に来た折、たまたま一緒に講義を受けたのがきっかけで仲良くなった。
富裕層地域寄りに母親と住んでいるとのことで、家計にそれなりの余裕があるのか、どうにも逐一お菓子やら何やらを奢ってくれようとする傾向にある。今までに‘友達’といったカテゴリの人間が周囲におらず、プレゼント以外での親交の深め方がよくわからない模様。‘特別なことはしなくていい’と毎回説明する大地にもオドオドするばかりで、貰い物には常に5倍返し。先日にも上がいくつか入手してきたキーホルダー──ハギハギのリミテッドエディションやで──をお裾分けしたら、返礼品でやたらと値の張るパチンコを買ってこようとオモチャ屋へ向かっていくのを引き止めるのに苦労した。その姿を見た彗が‘彗も天仔キーホルダーあげる’と提案するのを躊躇ったほどだ。
「タピオカ飲んだら暗くなんないうちに帰んないとなぁ、上がウルサイもん。康はお母さん気にしてない?」
「あ、えっと…」
「人拐いのことぉ?そんなんずっとあるじゃん、九龍城では。姐姐も気にしてくれてるけどね」
答え倦ねる康に、蛋撻を手に入れ戻ってきた彗が発言をかぶせ唇を尖らせる。少し前から子供の急な失踪が多発しており、まぁ城砦での誘拐事件など日常茶飯事なものの以前巻き込まれかけたことのある大地を上は連日胃が裂けるほど心配し、樹は胃が裂けたら上がご飯を食べられなくなると心配していた。
「変なのが絡んできたらブッ飛ばして倒せばいいだけでしょ」
「そりゃ彗は強いからそうだけどさ。やっぱ俺も威力のおっきいパチンコ買おっかな?護身用で」
「じゃ、じゃあ僕が買ってきます。前に買おうとしたし」
「「康は買わなくていいの!」」
ピシャッと重なる彗と大地の声。康は再び瞳を白黒させ、2人の顔を見比べ慌てて首をブンブン縦に振った。