鬼節とルール違反・前
盂蘭盆会1
朝から東がドタバタしている。
日の出と同時に洗濯機をオン、終わるとすぐさま屋上へ干しに。家中の靴先は全てベッドと反対側へ向け、店の前には食べ物や線香を供え、紙で作った小物も添えた。
‘鬼節’だからだ。
彼世の門が徐々に開いて、鬼──もとい幽霊──が此世にやってくる素敵なひと月。丁度その中日にあたる本日は、門が完全に開け放たれて数多の鬼で街がごった返すスペシャルデイ。人々は彼らから身を守る為に供養として食料や冥銭をそこかしこで燃やす。
時刻は午前8時。樹は眠い眼を擦りながらベッドを降り、スリッパをつっかけフラフラ洗面台へ。途中でいささか壁に近付き過ぎた──といってもぶつかりはしない──身体を、駆け寄ってきた東が慌てて引っ張った。
「あんま壁にくっついちゃ駄目よ!」
中華圏では、‘壁は陰のエネルギーを発しているので霊が集まる’というのが通説。この時期は特にホットスポット化…不用意に近付いてはならない。
鬼節にはこういった決まりごとが山程ある。洗濯物もそう。衣服を野外に放置すると幽霊は嬉々としてそれらを一晩借りていくので、貸し出された衣類には不幸を招くオーラが残ってしまうとか。
然れども、そういった風習ももはや今は昔。昨今では若者にはさほど気にされない傾向、樹も儀礼的に触れていたとて全てを厳密に遵守したりはしない。
が、東は別。鬼節のルールを逐一守る。古い仕来りを重んじている、とかそういう天晴な理由には無論非ず、普通にオバケが苦手で怖いから。
パシャパシャと顔を洗う樹。俺は宗と綠が帰ってくるぶんには大歓迎だけど…ていうか帰ってくるもなにも普段から【東風】に居るか…。東も知り合いの訪問ならいいんじゃないのかな?オバケっていう存在自体が怖いのかな?考えつつ水滴を拭って、台所へ戻りテーブルにつく。ホカホカと湯気のたつマグカップ、中身は淹れたて鴛鴦茶。手に取りひとくち啜った。甘苦い。
「樹、お昼は蓮のとこで食べるんだっけ」
「うん…そのあと配達のバイトしようかと思ってたんだけど、早く起きたし先にやっちゃおうかな…」
まだ少し眠たげに答える樹へ‘じゃあ朝ご飯作ろうか’と冷蔵庫を覗く東。そこで樹は、昨日の雨で濡れてしまったので店内で広げて乾かしていた傘が外へ出されているのに気が付いた。そういえば、伝承では彷徨う霊が木陰や傘の下へ避難してくるとされているらしく、鬼節に家の中で開いておくのは縁起が悪いとか…。
傘は店先へ設置された小さな祭壇を庇う格好で吊るされていた。揺れる蝋燭の灯りと線香の煙、盛られた干し桂圓。なんだかんだで逃げ込んできたオバケ達が過ごしやすいように配慮し作られた休憩所、優しいビビり。
ちなみに、道端で落ちている傘を拾う行為もご法度。見知らぬ幽霊をうっかり引き取ってしまうことになる。お金も拾っちゃいけない。路上に撒かれた金銭は亡者を管理する獄卒への供物の可能性が大、横取りは厳禁。
テレビで流れる朝のニュースをボケッと眺めるうちに、美味しそうな料理が食卓へ並ぶ。本日のメニューは通粉スープ、咸牛肉と蛋の三文治、追加で火腿奄列も。デザートには作り置きしておいた薑汁撞奶をどうぞ。プルプル震える香港スイーツ。
用意された品々を目にもとまらぬ速さで吸い込み──もっとゆっくり食べたほうがいいと承知してはいるんだけどつい…美味しいし…──平らげた樹は、キッチン周りの片付けを軽く手伝ったのち自身も身支度を整える。
いつものシャツに着替え、いつものベストを羽織り、いつもの人民帽───はかぶらずお留守番。靴を履いて荷物の入ったショルダーバッグを斜め掛け。東に見送られて屋上へあがると、降り注ぐ陽光の下、連なって干された洗濯物が風を受けパタパタとはためいていた。天気は頗る良好、これならおやつ時には乾くはず。
此度の配達は封筒ばかり。見た感じどれもこれも普通の手紙だ、平和な郵便物。宛先は九龍各所で見事にバラバラ。時間はそれなりにかかる予想、腹ごなしにはもってこい。
さて…1番近い住所は…いや、1番遠い住所から行くか?逆に?紙束と睨めっこし唸る樹、違法建築スレスレを過ぎゆくジャンボジェットは香港カーブで華麗にターン。啟德機場着陸します、オーバー。
よし。城砦の端から配って回り、食肆周辺へ帰還してくるルートにしよう。そうすれば道中でお土産のお菓子を買ってもさして邪魔にならない。樹は数回屈伸をすると、あちらこちらに点在するお供え物を避けながら、最初の目的地へと走り出した。