偶々とヒマラヤン・後
待宵暁鴉13
海濱道、倉庫街。
「船のほう、誤魔化せんのか?」
「積み荷多いから…隠れてれば大丈夫だよ。上手く乗り込めそうなルート確認してきた」
東の手際良いピッキングを眺めつつ雑談を交わす猫と燈瑩。建ち並ぶ倉庫は大小合わせて10棟ほど、家捜しはこの建物で4棟目、薬は2棟目で発見済み。ものの数十秒でカシャッと音をたてて開く錠前、東が扉を横へスライドした。
錆びたレールがギィギィ軋む。薄暗い室内。上部に申し訳程度に備えられている、窓ともいえないチャチな窓。そこからかろうじて射し込む月灯りに照らされたドラム缶の群れの側、鐶が背中を丸めて寝転がっていた。中。猫はスタスタ歩み寄る。
「ボッコボコじゃねーか」
その声に鐶は閉じていた目を真ん丸く開き、信じられないといった表情。
「なんで猫が居んの」
「さぁ?酷ぇツラだなお前、歩けんのかよ」
青痣だらけの顔。半グレ共は売り飛ばす予定だといっていた、なら骨や臓器に損傷はないだろうが…思いながら猫が差し出した手を鐶は払って、重たそうな上半身をどうにか1人で起こした。
海濱道を探り当てたということは、諸々の裏事情にも調べがついている…そう理解した鐶が、それでも猫が助けに来た意図を掴みきれず、下唇を噛んで投げやりに言う。
「何しに来たの」
「ちっと話、訊きに」
猫も投げやりに応えた。長安路の銀麗宮で働いていた女、晴の母親。大陸へ流したのはお前かと尋ねると、鐶は考える素振りをみせ───頷いた。‘そういうビジネスはしなさそうに見えた’と所感を述べる猫へ空笑い。経緯をポツポツ話す。
あの母親は重度の薬物依存、もはや取り返しがつかなかった。ならば子供の目の前で発狂して凄惨な死体になるより失踪のほうが幾分マシなのではとの救えない選択肢と、自分も人身売買くらいはやれる所を大陸の連中に見せなければとの思惑が重なった末の出来事。そうしたら、あちらこちらのチームからトバせる商品を連れてこいと次々要求されだしてしまい、困った挙げ句に目をつけたのが馴染みのあった【宵城】や花街周辺の女。あまり自ら動いても不審なので飲み屋で引っ掛けたチンピラ──東の知り合いだったけど──を偵察に派遣していた。わかりやすいストーリー。
「俺の親は…俺が見てる前で、クスリのやり過ぎで死んだから…」
鐶が自嘲気味に笑う。晴の母親は、元より薬の売買でこの周辺のグループと繋がりをもっていたらしい。付け足して言えば、娘をどうにか使って金にしドラッグを買えないかと鐶へ話を振ったこともあったようだ。猫のせいじゃないよとボヤく鐶を見下ろし、猫は溜め息をついた。
結局、鐶が売ったのはこの女だけ…だからどうだというのも贔屓に過ぎないが…ひとつまばたきをしてゆっくりと語る。
「お前よ。あっちこっちのグループにイイ顔して、もう首回んねぇんだろ。觀塘仔灣に船が用意してある。半日くれぇ隅で隠れてりゃ港に着くから降りて適当に暮らせ、九龍にも香港にも戻ってくんな」
出航の0時までに行けよ、正面から乗らねぇで隣のタンカーの搬入口使ってはいりこめ。船舶名とルートをぶっきらぼうに告げる猫を、鐶が睨んだ。
「逃げたって…どこにもねぇだろ、居場所なんて…」
「無きゃ作れ。甘えたことぬかしてんな、そいつぁ自分でなんとかしろや」
「っ、みんなが猫みてぇにやれるわけじゃねーんだよ!!」
…やりたくても。そう続いた語尾が、震えていた。猫も鐶を見詰める。
───猫、煙どうやってんの?
───俺も金パにしよっかな。
思えば。煙草の煙の吹きかただって、髪の色だって、くだらない事でも鐶は俺を追いかけたがっていた気がする。憧れなどという言葉はこそばゆいが、きっと‘並び立ちたい’と、そう願っていて───その結果がこの事態を招いた。
鐶が入り口の扉に寄りかかっている東と燈瑩へ視線を移す。話には出していたけれど顔を合わせるのは初めてか、挨拶っつう空気でもないが。少し意識を割いた猫の耳に届く呟き。
「そいつらだって…いつ裏切るか、わかんねぇだろ…」
猫は眉根を寄せた。親しい人間である自分が裏切る形になってしまった事についての発言か?まぁそれはそうだ、身内であれ何であれ誰がいつ掌を翻すかなどはわからない。この2人がそうすると思っている訳ではないけれど…というか、そもそも。猫は首を擦り呆れた声音。
「かまわねぇんだわ、んなこたぁ」
裏切らないからじゃない。裏切られてもいいからだ。
傍に置きたいから傍に置いている。俺がそう決めてそうしているのだから、どういう結末を迎えたとて構わない。信じていたのに、などと嘆き、己の勝手な願望を相手に背負わせケツを持たせたりはしない。選んだのは自分だ。責任も自分が全て取る。
───鐶に対しても。それは変わらず、同じことだった。
とっとと行けと手を振る猫から目を逸らし、俯く鐶はまた唇を噛んだ。途切れ途切れに紡ぐ。
「猫が…いつも色つけてくれてた、スカウトバック。けっこう貯めてて。家の…洗面台のタイル剥いだ、床下に隠してある」
その子供の面倒見てるって人に渡してやってほしい。言ってヨロヨロ立ち上がると、猫の横を抜けて、俯いたまま倉庫を出て行った。東と燈瑩が黙って背中を見送る。鐶の姿が闇夜に消えたあと、まだ振り返らない猫へ近寄りニヤニヤと肩を小突く東。
「俺らのこともっと信じてもいいのよ?城主サマ」
「やかましい詐欺師だな」
「俺は詐欺師じゃないけど」
「似たよーなもんだろがヤクザ」
含み笑いを飛ばしてきた燈瑩に悪態を返し、猫は東の脇腹へポスッと肘鉄を入れる。
…ポスッ?…ドスッではなく?いつになく優しい威力を東が不思議に思っている側から、猫の姿勢がグラッと傾き地面へ倒れかけた。慌ててキャッチし抱き上げる東、耳と尻尾をヘナッと下げて非常に具合の悪そうなネコは戸惑う眼鏡へ不機嫌そうに命令。
「運べ…【宵城】まで…」
「え?さっきの薬効いてんの?」
「テメェと違って、薬中じゃねんだよ…」
不本意なお姫様抱っこに弱々しく鳴く。先程ウィスキーに混ざっていた薬剤は例のアレ、東も実はうっすら目の端に蜻蜓がチラついていた。
「猫にゃん、俺ら何に見える?」
物珍しそうに見ている燈瑩と目配せして、東は楽しげにクエスチョン。蜻蜓なのか?斯芬克斯なのか?舌打ちに乗せて絞り出された答えは。
「………喜馬拉雅貓」