披瀝とペティナイフ
待宵暁鴉10
「じゃあ、その男の子に話聞きに行くのね」
「連絡取れねぇんだけどな。まぁ、もうちょい調べりゃ足取り掴めると思うわ」
露台で棒雪糕を囓る楓へ頷く猫。花街がようやく朝の挨拶を始めた夕間暮れ。【宵城】は店休日、ネオン看板の電飾の明かりはいつもより控え目。
日中に楓と外で遊んできた晴は、部屋へ来るなり早々にベッドへとダイブし昼寝を始めてしまった。昨日オマケで貰った熊猫曲奇をやろうと思って呼んだのだけれど…帰りがけに渡すとするか。猫はスヤスヤ眠る幼い横顔を眺める。
母親は見付からないだろう。推測するに既に大陸側へ売り飛ばされており、そして、売り飛ばしたのは───鐶だ。九龍の女を販売している女衒。それだけでは確証に足りないものの…以前鐶へ楓の話をした時、‘長安路辺りの銀麗宮’という単語に浮かない表情を見せた。晴について思うところがあったせいにしろ、どうにもその方向性が、こちらの予想とは違っていたらしい。
現在、鐶の所在はわからない。先日のチンピラが吐いたチーム名に全合圖が抑えているグループを照らし合わせて怪しそうな箇所を探ってはいるが、どこかと突出して繋がりが固かったということもなさそうだ。‘鐶は四方八方にイイ顔をしていた’とのチンピラの供述もある。こうなると、行方不明は本人の意思ではないかも知れない。
「悪ぃな、迷惑かけて」
「なにが?猫君は晴のお母さん、探してくれてるのに」
「いや…」
虎柄の絨毯の上、胡座の膝に片肘をつき、猫はこめかみをおさえた。
確かに花街での範囲は狭かったな。俺の周辺が妙にバタついてたのも、火元が鐶であるなら納得出来る。バックがデカいなどとは詭弁だ、股にかけているのは大陸のはぐれ者が作った小団体。九龍へやってきたはいいが全合圖の影響もあり燻っている野郎共。最近【宵城】に来る回数が増えていたのは諸々を探る為…と仮定すれば…。
「俺のせいっつーのも、あるかも知れねぇから。晴の親がいなくなったのは」
鐶がいつから大陸の輩と徒党を組んでいたかは知らないが。俺の周りをウロついて得られる情報や、俺自身から聞いたネタを参考に動き回っていた可能性は否定出来ない。直接の原因ではなくとも間接した因子にはなったのかも。
‘みんながみんな、猫みたいに出来る訳じゃないからさ’。その言葉も、今はやけに耳に残る。
しかし───鐶は性格的に、女をヨソへ売り飛ばす類の人間ではないように見えていた。晴の親は重度の中毒者だった…人身売買にはそこいらの事情も絡んでいたのでは?例えば…否、全ては憶測だけれど。
猫の説明へ狼狽の気色を漂わせた楓が返答に窮し、何か言いかけては口を閉じる。居た堪れなさから彷徨わせた視線をベッドの方角へ向けた途端。
「晴、っ…」
瞼を見開いて呟いた。猫も視線の先を追う。凝視しているのは、いつの間にやらベッドで立ち上がっていた晴が諸手で握り締めて構える、銀色の物体。
あれは───ペティナイフか。しばしば寝酒で作るカクテルの檸檬や何某を切る用途で枕元に常備してある1本。晴が持っていると随分大振りの刃物に見えるな…どこから話を聞いていたんだ…?けれど隠すようなこともない、この子は1番の当事者、経緯を知る権利があって然るべき。猫は晴に向き直る。
「まおが」
震える声が響いて楓が息を呑んだ。誰も耳にしたことが無かった稚いそれは、確実に、晴から発せられたものだった。
「まおが…わるいの…?」
目尻の端、決壊ギリギリまで溜まった涙。零すまいと懸命に力を込め眉根を寄せる晴へ猫は短く肯定を返した。
「かもな」
聞くやいなや、晴の身体が猫をめがけて駆ける。もちろん速くなんてない。楓が露台を降りて制止に来るのは間に合わないとしても、どうとでも躱せるし往なせるスピード…なものの。猫は胡座をかいたまま動かなかった。
対応を決めかねていた。あの程度の刃渡り、1箇所や2箇所を刺されてやっても異存はないが、うっかり重大な事になったら晴によくない。どうするかな。考えるうちにも詰まる距離。
と───ベッドと猫の間。晴の進行ルート脇にある入り口の扉から、やにわに、スッと腕が1本伸びた。
唐突に現れたその掌へ、音も無くナイフはサックリ刺さった。晴は瞳をパチクリさせ腕の主を見上げる。目が合った燈瑩は、もう片方の手で晴の頭を撫でると、そっとナイフから指を離させ屈み込んだ。晴の顔を優しく見詰める。
「ごめんね。邪魔しちゃった」
微笑む燈瑩に反して晴の双眸へ溜まる水量はどんどん増し、ついには溢れて、紅潮した頬をポロポロ伝う。‘なんで’と掠れた声。
「とーえーは……いいひとじゃん……」
しゃくりあげる晴へ、燈瑩は‘俺のほうが猫よりよっぽど悪い人だよ’と悪戯に眉尻を下げた。刃物が生えたままの左手はさりげなく隠し、所在なさ気な晴の小さい両手を右手で包む。
「晴ちゃんの気持ち、ちゃんと受け取ったから。ママのことは俺達がもう1回探してくるよ」
晴は唇を引き結び、しばらく黙りこくったのち、わずかに首を縦に振った。
どんな人物だとしてもどんな扱いを受けたとしても、この子にとっては母なのだ。絡まる各々の思惑しかりネグレクトしかり、理解をしたり客観的に割り切れる年齢などでは到底ない。
それでも…どうにか頷いた。その晴の肩を、楓が抱き締める。彼女も泣いていた。
猫は土産の熊猫曲奇を晴へと渡し、晴は袖口でグシグシ涙を擦ると可愛らしいラッピングのそれを受け取る。申し訳なさを滲ませながら同じく目元を拭う楓の背を叩き、‘お前のせいじゃねぇ’と再三の言葉をかけ、暗くなる前に帰路へつかせた。
角を曲がるまで何度も振り返る楓と晴に手をヒラヒラさせる燈瑩。2人の姿が見えなくなってから、猫はポケットに突っ込まれているヒラヒラさせていない方の手へと目線を向けた。
「つうかテメェ、いつ来たんだよ」
「普通にさっき」
「いつまで刺しとくんだ?それ」
「今とるよ、2人が帰るの待ってただけ。目の前であんまり血が出たら晴ちゃんビックリしちゃうでしょ」
ポケットから抜かれた左手に未だ突き立っているペティナイフ。あんまり血が出たらもなにも、もはや相当赤くなっていたが。呑気な言へ不機嫌に舌打ちする猫を見て、燈瑩は目を細める。
この舌打ちは…心苦しさの反映なのだ。非常にわかりづらいが。素直に表せない天邪鬼なネコちゃん…内心で愉快に思う燈瑩の雰囲気を感じ取り、金色の毛並みの小柄な猫は、面映ゆそうに顔を顰めた。