パンダとテディ
待宵暁鴉4
晴天が続いても、どこかジメジメした城砦。スレスレを横切るジャンボジェットは湿った強風を違法建築へ吹かせながら啟德機場に降りていく。窓際で吊られた花柄の掃晴娘が柔らかな午後の陽光を受けて揺れた。
「猫君ありがと、時間作ってもらって」
「何がだよ、俺が来いつったんじゃねーか。もうすぐ宅配便着くから甘いモンでも食って待ってろ」
部屋の入り口で頭を下げる楓を招き入れ、猫はその足元にひっついていた子供へ棒雪糕を渡す。楓の陰から腕を伸ばして雪糕を受け取る小さな手。幾度か顔を合わせているが、まだ人見知り…年齢は5歳かそこら。菓子とぬいぐるみが好きな痩せっぽっちの女児。
言葉は発さない。話せないのではなく、話さないように見える。引き取ってからこっち、楓もこの子と会話した試しはないという。けれど構わない、自分のペースで心を開いてくれればいい───そう語る彼女の眼差しはことさら優しい。
「晴、こぼしてるよ」
言いながら楓は雪糕を頬張る少女の口元をハンカチで拭った。晴。持ち物のキーホルダーに書かれていた名前。母親が職場に出勤してこず、重なる欠勤と無連絡に痺れを切らした従業員が自宅へ訪ねた際…服やゴミや錠剤のパケットが散らかる室内で、晴はそのキーホルダーのついたカバンと腐りかけのわずかな食料を握り締め片隅に蹲っていたらしい。親の行方を尋ねても、首を横に振るばかりで手掛かりは無し。晴にとっては母が帰ってこない日々のほうが日常だった様子。そもそも、それまで家に子供がいるとは誰も把握しておらず…というか子持ちであること自体、関係を持っていた客や男達を始め同僚のキャストですら何も聞いていなかったとの証言から、母親の姿勢や晴に対する扱いのぞんざいさが伺い知れた。
「お待たせ。宅配便です」
雪糕が数本片付き曲奇缶に手をつけはじめた頃、声と共に大きな熊猫のぬいぐるみが扉より顔を出す。モフモフした白黒に駆け寄る少女、猫は後ろでぬいぐるみを支えている燈瑩を覗き込んだ。
「思ったよりデケェな」
「ね。俺もビックリした」
老人会のナイスミドルが商店街のクジ引きで当てた1匹。孫も親戚も持たない彼は、晴の話を小耳に挟むと‘その嬢ちゃんにやってくれ’と100cmほどの愛くるしい獣を燈瑩に托した。老人会に寄り集まるのは歳を重ねた──そもそも未婚なのか事情で家族と離れて暮らしているのかはさておき──独り者達、なので、近所の子供は皆の子供…どこかそういった意識がある。
己の背丈とほぼ同サイズの巨大熊猫を懸命に抱える晴のお団子頭を燈瑩が撫でた。嬉しそうな仕草をみせる晴、会って数回なものの燈瑩のことは警戒していない模様。老若男女かまわず満遍なくモテる男。
熊猫とおやつをゲットし、上機嫌な少女を連れ帰路につく楓を見送りつつ、猫は小声でボヤいた。
「親、もう死んでるだろうな」
燈瑩は曖昧な相槌。九龍城砦で1度居なくなった人間が無事戻ってくるケースはかなり稀、晴の母親も…残念な結末を迎えているとみて至当。
「猫、どうするの」
「死人探すほどお人好しじゃねーよ、俺ぁ。楓と違って」
死んでしまえばそれ以上してやれる事など何も無い。死人の為にする事というものは、とどのつまり、遺された者───生きている者の為にしているのだ。故人を想うたび天国ではその人の頭上に花の雨が降るなどというロマンティックな話もあるが。猫は花弁ではなく燦々と眩しい日差しを降らせる空を鬱陶しそうに眺めて目を細めた。
「まぁ、だから…生きてるヤツの為にやってやるか…一応」
「お人好しじゃん」
「うるせぇな。お前、沙也のほうどうだったんだよ」
「特には。俺も密輸関係とかでトラブルは聞いてないし、まだ小さい火種なんじゃない」
「消火は早めがいいだろ、どっちみち。東もめぼしいネタ入ってきてねぇつってたけど」
言いながらパイプに火種を入れ、思い出したように借問。
「眼鏡は沙也どうしたんだ?結局」
「店行ったら他の娘に目移りして、そっちにテディ卸したみたい。‘沙也ちゃんは諦めるからパンツの色だけ教えて’って」
「マジで終わってんな…お前、教えたの」
「‘暗かったから見てない’って言った」
「不错」
2人で肩を震わせる。それから近々、全合圖のお偉いさんと1席設けるので情報を貰ってくるとの燈瑩の言に、猫は‘パンツの色でも聞いてこい’と返した。