テイクバックとイーグルアイ・中
陰徳陽報15
足早に屋上へ。秉燭、花街のネオン、違法建築スレスレを横切る飛行機。湿度を多分に含んだ空気が流れ、所狭しと無数に並ぶアンテナ群がキシッと揺れた。普段ルーフトップまで足を運ぶことはさほどないのか、瑪理が物珍しそうに縁から下を覗き込み…高さに慄くとすぐさま彗の傍へ戻ってくる。
樹の携帯が鳴った。微信、東。
「今度は何よモサメガネ」
「‘腎臓えぐれる☆’って」
「は?」
どうやらショーで東が解体してみせる部位は腎臓に決定した模様。2個あるから1個とっても平気じゃないのと彗、画面には再び踊るメガネのGIFスタンプ。なんか東ハイテンションだな…思いつつ樹は踊る月餅GIFを返す。スマホを仕舞い数回屈伸。
「急ぐけどいい?」
「当ったり前!ナメないでよね!」
樹の問いに彗は鼻を鳴らし、足首を回すと髪をまとめ直して不格好な魔窟を睨んだ。
日常の買い物や何でも屋の配達バイトなど、樹が単身で動く際には殆ど地表を通らないことは彗も織り込み済み。屋上を渡っていく理由は至極単純、‘その方が速いから’。毎回外壁を駆け上がってくるので猫は部屋の窓の鍵を常に開けているらしい。【宵城】のカベをどう登るのかはさておき───この足場であれば、ついていけるはず。彗だって爸爸の弟子なんだから。
「負けないからね」
「ん?うん」
「え、あの、屋上通るんですか?早速足手まといで申し訳ないのですが、わっ、私は走れませんよ?」
「うん。俺が走る、掴まってて」
彗の宣言と瑪理の発言に頷くやいなや、樹は瑪理を横抱きにして駆け出した。フワリと柵を飛び越え隣のルーフトップへ。トタン屋根の上を風の如く過ぎ去り、ジャンプして次のマンションに着地。配水管を斜めに滑り降り、掘っ立て小屋のような家々を抜け、また次のマンションに着地。看板、室外機、ハミ出た鉄骨。あるようでないようなスペースを踏み台に、どんどん目的地へ向かっていく。時折聞こえる瑪理の叫び声。
跡を追う彗は歯噛みした。ついてはいける、いけるが、正直ギリギリだ。なのにこれが樹の最高速ではないことを感じていた。合わせてくれている。現段階でこのスピードなら、本気を出されてしまえばてんで追い付けないだろう。ルートだってそう。樹1人であれば──例え、瑪理を抱えていたとて──もっとキワどい道を進めるに違いない。時折チラチラ後方を振り返る樹の気遣いが、今は悔しかった。
いくつかエリアを突っ切り富裕層地域。目的の建物のいくらか手前で、あまり目立たない路地を選び地面に降りる。樹はビルの非常階段の手摺りをスルスル下り、湿ったアスファルトに足をつけた。瑪理を降ろすとワンテンポ遅れて彗も到着。驚きを隠さず述べる樹。
「彗、すごいね。めちゃくちゃ速い」
もちろん彗ならやれるとの予想からこの手段にしたのだが、それにしても、思った以上にスムーズな移動が出来た。完全に本音の称賛だったけれど、彗から聞こえた‘まぁね’がどうにも不満気だったので樹は首を傾げる。いいから行くよと先頭に立ち歩き出す彗の跡を今度は樹が追った。またも覚束ない足取りで付いてくる瑪理、乗り物酔い。
件の建物は普通のビル。外観から想像するとあまり内部は広そうに見えない、ごくノーマルな1棟。正面入口側には人通りが割合とあり警備員も立っていた。このセキュリティは恐らく常駐、イベントとは関係なさそう…まぁどのみち正面突破は選択肢外。コッソリ裏手を調査。物陰から様子を窺うと、薄暗い道で男が数名、非常口を固めている。こちらはショーの為のガードマンか。タンクトップに三角筋。
「ムキムキですね」
「ヤダってば、あんな筋肉見せつけてるような奴!ゴリマッチョより細マッチョのほうが女子ウケいいに決まってんでしょ」
「私はゴリマッチョ、好きですよ?」
「モサメガネといいゴリマッチョといい趣味合わないわね瑪理とは。早くやっちゃお、イツ…月餅!」
「ん?うん」
彗がつけてきたコードネームへ曖昧に答え、月餅は壁を蹴り宙を舞う。上空からの奇襲へ男達が反応するより早く、手前の輩の脳天に踵がメリ込んだ。続けて身体を半回転させ隣の男の顎へスコンと爪先を掠める。倒れた男達を踏みつけ残りの1人を確認するとそいつは既に彗が地べたへと沈め終わっていて、ヒュンヒュン振られた三節棍がホットパンツから伸びる太腿のホルスターに収められるところだった。
「うわ、強っ!すご!」
瑪理は目をパチクリさせた。唖然としてしまいロクな感想が出てこない。彗ちゃんもかなりの身体能力なものの、樹君は化物か?そもそもここまで人間を手荷物として持って走ってきた時点で異常である…彗ちゃんがお泊り会で言った‘いつか樹倒す!’の謎解明…思い返して呆ける瑪理の横、ゴリマッチョ連中の所持品をガサゴソ漁る樹。
「あった、鍵束。とナイフ。いる?」
「彗はいらない。瑪理に貸しとけば?」
「わかった。はい瑪理」
「いやいやいや!!私はケンカは、その」
「とりま手ブラよりはいーでしょ」
オタオタする瑪理のベルトへ彗は小振りなコンバットナイフを差し込む。扉を開けた樹が顎で奥を示した。中に入って少し行くと分かれ道、左右をキョロキョロ見ていた瑪理が‘あっ’と閃く。
「ここわかります。あっちに行くと地下の店舗のメインエントランスじゃなくて、裏手に繋がる階段があるんですよ。そこ登ったら、店内が見渡せる中2階みたいなところへ出れたはずです」
「へぇ、詳しいじゃん!やるわね!」
「私キャストとして使えなさすぎて…ボーイからも雑用押し付けられて、そういう部分の掃除とかさせられてたんで…」
「アンタまじでどこ行ってもそんななわけ?まぁ今回は役に立ったから良しとしましょ」
彗の評価に瑪理は微笑。お馴染みのネガティブさからくるしょうもない経験、だが逆に、それが役に立った。‘役に立った’───ニヤニヤしながら彗に擦り寄る。
「さっきの月餅ってコードネームですか」
「ていうほどのもんじゃないけど、本名呼ぶのも微妙でしょ」
「うふふ、そうですね。そしたら彗ちゃんはシスコンとかでどう痛っ!!」
「なら瑪理はボブね」
「えぇ!!」
言い切らないうちに叩かれたうえ変なアダ名をつけられ慌てる瑪理。ボブは嫌ですぅ、じゃマーリー、ほぼ本名じゃないですかぁ、などとワチャワチャしながら中2階へ。スタッフオンリーのドアは先程の鍵束でクリア、狭い通路を過ぎると若干開けた1角に出た。眼下に見えるのはステージ、客席、ひしめき合う人々。ショーは開演前…体勢を低くする3人。
瑪理は舞台近くのVIPテーブル、ロージェへ目を凝らし支配人を探す。右奥?居ない。右手前、も居ない。左奥は?
「居ました!アイツ!」
瑪理が指したのは褐色で小太りの妙に顔が濃い中年。仕立ての良いスーツを着込み、髪はペッタリ後ろへ撫で付けている。いかにも金持ち然。‘前はもっと痩せててこざっぱりしてたんですけどね’と瑪理。儲けで私腹を肥やしているのか。
さて…どうやってアイツに忠告をするか…。樹はフロアを眺め、ステージやや斜め上、緞帳の脇に配電盤を認めて親指を向けた。
「あのさ。あれ壊せないかな」
片眉をあげた彗が、ニヤリとして瑪理の腰にくっついたコンバットナイフを叩く。
「瑪理、出番よ。これ投げて配電盤壊して」