ドタキャンと‘もう1回’・後
陰徳陽報9
「すまん樹、店案内してもろて」
「んーん。俺も何か食べるつもりだったし」
お昼のピークを過ぎて客足が落ち着いた茶餐廳、ボックス席。向かい合わせで餐牌に視線を落とす樹と上。
「挪亞ちゃん何時に着くの」
「や…もうそろのはずやねんけど…」
早々に西多士と蛋撻を胃袋に収めシェフお薦めケーキセットを狙っている樹へ、上は歯切れ悪く返答。
挪亞の指定した時間がおやつ時だった為、樹オススメの茶餐廳で落ち合うことに決めたのだが───まだ彼女の姿は無い。今回は来てくれる、なんて甘い考えだろうか。情報を教えるなどとは方便かも。はぐらかして、店に呼びたいだけかも。けれど…そんな嘘をつくような子だとは感ぜられなかった。経験値の浅い自分が言うのもなんだが。ポツポツ胸中を吐露する上、樹はデザートの写真を眺めながら頷く。
「上がそう思うなら、来るよ。俺も一緒に待つ」
「うん…ありがとうな…」
「時間あるから平気。今日バイト無いし」
「あ、それもそやねんけど、そこやのうて」
キョトンとする樹に上は少し笑う。
自分が感じただけのこの上なく不確かな印象を、肯定し支持してくれる。仮に挪亞が現れなかったとしても樹は特に何も言わないし、次回も共に待ってくれさえするだろう。‘上がそう思うなら’と。その当たり前の何気なさがいつも嬉しいのだ…そう上が説明づける前に、入り口のドアを押して挪亞が店内へ入ってきた。すぐに上を見つけ同じテーブルへ着席すると樹と軽く挨拶を交わし‘遅くなってごめん’と謝罪。
「来ないと思ったでしょ」
「思わへんかったよ」
「嘘だぁ」
「ほんと。上、来てくれるって信じてた」
樹が挟んだ台詞に挪亞は瞳を丸くして、‘上くんマジで優しいね’と微笑。抑えたトーンで話始める。
「昨日来られなかったのは…プッシャーからドラッグ買ってたからなんだよね。手持ちのやつ全部ヤっちゃって、どーしよもなくて。アタシ、ジャンキーだから…」
乾いた笑い。上は震えていた腕を思い出し、そうかと相槌を打つだけにとどめた。
「アタシのことって、前のお店の誰から聞いたの?瑪理ちゃんとか?」
「え?ん…ちゃう、とも…言えやんけど」
「あははっ!上くん正直過ぎ!」
手を叩いて笑う挪亞は‘アタシ瑪理ちゃん割と好きだったよ’と口角をあげる。
「上くんが探してるのってスプライだよね。あれ、パーティードラッグはパーティードラッグなんだけど、ちょっと変なの」
「変?」
「いっぱい使ってるとマジでパーティー?イベント?に誘われるんだって。噂があるの」
意味がよくわからない。頭上へはてなマークを出す上へ肩を竦める挪亞。
「アタシもよくわかんなくて。バラ撒いてるだけだし…けどバラ撒くだけで結構イイお金貰えるんだ、胴元の人に。その人は詳しく知ってるみたい。上くん達がなんかさぐってるなら、どんな人か教えてあげよっか。でも」
踏み込むなら危ないよ。そう呟いてうつむく彼女は、続けて、言っちゃったからアタシも危ないかもと零す。
「ほんとは迷ってたんだよね、話すの。仕入れ先のこととかイベントのこととか、やっぱそーゆーのって、秘密みたいだから。裏関係のトラブルで追い込みかけられちゃった子とかもいたし」
「せやったらなんで俺らに言うてくれてん」
「んー…そっちは全部断ち切って?真面目にやるのもいいなぁって。上くん見てたら」
挪亞は注文した紅茶をストローでかき回し、中の檸檬をガシガシ潰す。
「前からさ。九龍を出て、新しい街で頑張ろってゆってくれてる人が居るんだよね。彼氏じゃないけど。付き合うのはアタシが断ってるの、こんなジャンキーなのにマトモな暮らしなんて出来ないもん。でも、俺が支えるからって。やり直せるから2人でやってみようって。アタシは‘無理だよ’ってゆっててさ、ずっと。上くんみたいな真面目クンなんだぁその人。アタシのどこが良んだろね」
ピッチの上がった口調。かき回された檸檬茶のグラスの中を、果肉と種がフワフワ泳ぐ。
「アタシ、薬やめらんないの。何回もやめようとしたことあったけど駄目だった。結局買っちゃうの。だから、勇気出ないの。また駄目なんだろなって思っちゃうの。親もそんなよーな揉め事で死んじゃってるし、もぉ、アタシもどーせそんな感じなんだなって。瑪理ちゃんてさ、こーやってアタシがウジウジ…ジャンキーなことはゆってないけどさ。とにかくウジウジしてると、気にかけてくれるんだよね。‘私ネガティブなんで気持ちわかりますぅ’とかって。嬉しかったなぁ…」
───どうしたらいいんだろ。聞き取れないほど微かに発した挪亞、その横顔を見やり上は思案。出会った際の‘真面目クン、嫌いじゃないんだぁ’及び、昨日の質問の意図はこれか…自分が実のあるアドバイスを出来るということもないが…携帯にブラ下がる深藍い毛むくじゃらのストラップを弄る。相も変わらずケタケタと愉しげなスマイル。暫く考え、口を開いた。
「行ったらええんとちゃうか」
振り向いた彼女と真っ直ぐ目線を合わせる。
「何回失敗してしもても…次は成功するかもせん。上手くやれるかもせん。やり直せるかもせん。諦めんかったら、ちょっとずつでも前に進める。もう1回やってみよか、て気持ちがあんなら、行ったらええと俺は思うで」
挪亞が唇を噛み、でも、と瞼を伏せた。
「そんなのズルくないかな。アタシだけさ。イイヒト見つかったからってホイホイついてって。今まで一緒に馬鹿やってきた友達とか九龍のこととか捨ててさ」
「そんなことない。そんな風には思わない」
樹が即座に反応し、ハッキリと言い切る。わずかに驚く上の正面、挪亞と同じく目を伏せた。
あの時───宗の出来事があった時、東が言ってくれた事だった。皆それぞれの過去があり現在があり未来がある。今まで選んできた、そして、これから選んでいく選択肢は、自分だけのものなのだ。視線を上げて言葉を紡ぐ。
「もしそう思う人が居たとしても、きっと…わかってくれる」
もしも…怒りをぶつけてくる人が居たとしても。わかり合いたいと願い、心を尽くせば…届くはず。届いた、はず。そう信じている。
「老豆も、‘誰でも受け入れてくれて出ていくなら足も引かないのが九龍だ’って」
「老豆?樹のお父んが言うててん?嘘やんいつ会うたん、平気やったんか」
「あ、陳おじちゃんのこと」
「なんやねん!ビビったわ!俺も老豆て呼ぼかな」
樹と上のやりとりを目で追う挪亞が、そのホンワカした雰囲気に緊張を和らげた。彼女へ‘大丈夫だ’と眼差しで訴える樹。挪亞は、噛み締めた唇をほどいて笑みを浮かべる。
「ありがと上くん、樹くん。アタシ…頑張ってみるね…もう1回」
いくらか朗らかな表情。樹は追加の蛋撻を半分に割って差し出す。それを受け取り笑う彼女へ、上も‘おおきに’と笑顔を返した。