靚女と萬屋・後
悠々閑々4
会話の合間、綾が曲奇に手を伸ばしカリッと囓った。サクサクでホロホロ。ふんわり香るバター、自然な甘み。
「美味しいね、これ」
「北海道産バターと牛乳100%みたい」
「最近出来たラーメン屋さんも日式だっけ。聯合道の」
「そこ、匠が食べた。‘イケてる’って」
「本場と同じくらい美味しいの?」
「‘わかんない。日本行ったことない’って」
「あっそうか!行ったことはないのか!てか樹くんも同じこと聞いたんだ?ウケる」
「うん…あ、曲奇、この前スーパーで貰ったやつも美味しかった。それも少し要る?」
樹が問い、綾は‘交換のスタンプ溜まったんだね’と笑う。上と2人で懸命にスタンプを集めていたのを小耳に挟んでいたと。しかし直後、フッと別の話題に気を取られた様子で瞼を伏せた。
「上くんさ…どう?大丈夫?」
ポツリと呟く。樹は首を縦に振り、大丈夫と答えた。
この質問は───莉華のこと。彼女の物語の顛末を上へ伝えたのは綾だ、最期を知った上が気落ちしているのではないか?と憂う雰囲気。
「落ち込んではいたみたい。だけど、上、けっこう強いから」
樹の言葉に綾は眉を下げて笑む。お兄ちゃんだもんねと口にして、そうだ、と瞼を開き話題を変える。
「大地くんの寺子屋は教会主催だっけ?」
「多分。宗教学あるし」
「そこイイ感じ?壁際に新設された教育施設の宣伝も割と力入ってて…友達が子供どっちに行かせるか迷ってんだよね。あのふたつ、ちょっとバチバチじゃん」
正確には、バチバチさせているのは寺子屋のキリスト教に関する布教活動を良しとしない軍の人間だけなのだが。樹はとりあえず大地は楽しそうに通っている旨を告げ、詳しく聞いておくと約束。とはいえ片一方の意見だけ取り入れるのは良くない…新設されたという学校?についても誰か知ってないかな…思いつつ曲奇をパクリ。糖分とカロリー。どうも何かを考えるとすぐにエネルギーを消費してしまう。
樹が再度檸檬珈琲を飲み干したのを目にとめた綾が、‘暑い?’とクーラーのリモコンに手を伸ばした。‘考え事してたら飲んじゃっただけ’との樹の返答へ‘次は西洋菜蜜にしよっか’と提案。
「このへんはまだ電気ちゃんと通ってるし、ウチにもエアコンあるからいーけど…扇風機だけの人とか、それすら持ってない人は夏ヤバいよね…あれ?てゆーか老人二巷って電気止まってなかった?」
「俺が昨日直した、あんまりしっかり出来てないけど。応急処置くらい。陳───おじちゃん、に頼まれて」
「そーなんだ!ありがと!」
呼び捨てもどうかと思い‘おじちゃん’をつけてみたが、心做し語呂が悪い…俺も東の真似をして老豆と呼ぼうか…迷う樹に、アタシ老人ニ巷に仲良いおばあちゃん住んでるんだよねと綾。
「けどこないだ、あの辺の工場の人達がパクられちゃって。香港に物売りに行った時に。工場主が不法滞在チクったんだよ、そしたら給料払わなくて済むから」
可哀想だよねと顰め面。不法滞在は本来取り締まられるべき事柄なので何を言えたものでもない。されど、九龍に流れ着いた人間はやむにやまれぬ事情を持っている者が多い。そんな人々のバックグラウンドを穿り返さず赦してこその魔窟なのだ。うんうん相槌を打ちつつ菓子をモグつく樹を見て、綾はクスリと頬を緩める。
「昨日は陳さんと何食べたの?」
「えっと、白灼蝦とか。蓮がめちゃくちゃ蝦仕入れてきちゃってて。安かったみたい」
宙へ両手で大きく円を描き、こんもりと蝦の量をあらわす樹。昨晩かなりの大量殺戮をかまし胃袋へ吸い込んだが、吉娃娃は‘今週ずっと安いようなので市場でおかわり仕入れてきましゅ!お楽しみに!’と張り切っていた。唐突に始まる海鮮週間。
「蓮くん、出前もやってるんだっけ。お店に届けてもらおうかな」
「綾の店、蝦出すの」
「違うよ!スタッフで食べるやつ、仕事終わったらお腹空くでしょ!」
そりゃそうだ、ピンクカジノで蝦は絵面がおかしい…キャバクラやカラオケバーなら軽食やフードメニューで注文出来る気もするが…いや、マカオあたりならカジノで蝦もありか?VIP席であれば?そういった娯楽施設にはホトホト縁のない大食漢は頭を捻る。
吸い殻を揉み消しながら綾が吐き出した。
「ってか…ごめんね。沢山愚痴っちゃった」
「え、別に。俺こそごめん」
「何が?曲奇平らげたから?」
謝り返す樹へ綾はクエスチョンマーク。曲奇もそうだけど──そして‘平らげた’と言われ手元に視線を落としたら、1枚も残っていなかった。食べたのか俺は…?本当に…?──じゃなくて。
「俺、いいアドバイスとか出来なくて。喋るの下手だし」
申し訳なさそうな表情で詫びる。対して綾はおもむろに新しい煙草へ火を点け煙を流し、ニヤリと口角を上げた。
「いーの、それで。愚痴ってる時の女は意見なんて求めちゃないの。解決したけりゃ‘どうすればいいかな’ってちゃんと訊くわよ。こっちが欲しがってもないのにあーだのこーだの言ってくる男が1番ウザいんだから」
聞いてくれるだけって逆に最高、と腕組み。
そんなものか。これもわからない。そういった恋愛沙汰にはサラサラ縁のない大食漢は頭を捻る。
不格好な違法建築の向こうへ太陽が消える頃、出勤の支度をするという綾の家を後にし樹は家路につく。明日は…鶏蛋仔屋から呼び出しを受けていた。某かの依頼、内容はまだ知らない。今週は珍しくスケジュールが埋まってるな…萬屋大繁盛。東にお土産でも買って帰ろうか?うん。善は急げ。ルートを若干変更し、夕星光る城砦の路地を抜け、食道楽は市場へトコトコ寄り道をした。
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「ただいま。東、これお土産」
「おかえり、なになに…わぁ田鷄だぁ…」
「アズマヒキガエルだって。食べよう」
「ヒキガエルって毒あるじゃない!ていうか名前!」
「毒のところ避けたら食べられる。名前で選んだ。食べよう」
「そっか…じゃあ、土鍋にしよっか…」




