靚女と萬屋・前
悠々閑々3
「ありがと樹くん!家まで来てもらって!」
「んーん、全然。ヒマだったし」
明るく礼を述べる綾へ、手荷物の袋をガサガサ弄くり中身を渡す樹。本日配達を賜ったのは人気スイーツ店──広告にデカデカと日式!の文字、メイドインジャパンはいつでも人気カテゴリ──の限定品詰め合わせ。勤め先のピンクカジノで常連さんへ配る用、プラスご自宅用。午前中から列に並んでゲットした。お代を払いつつ‘昼前に買いに行くのキツくてさ’と綾。職業柄、仕事を終えて帰宅するのが朝け方なのだから当然である。頷く樹は城砦の賃貸物件の広告を広げた。
「チラシ持ってきたけど、直接大家さんの所に行くのがいいと思う。区画しぼれたら教えて。それか燈瑩に連絡して」
「燈瑩くん、老人会のビルオーナーさん達と仲良いもんね」
玄関先で立ち話を続ける樹へ‘あがりなよ’と促し、綾はアイスの檸檬珈琲を淹れる。先日燈瑩が界隈店舗の内部事情を綾に訊いた際、綾も燈瑩へ近隣の物件で手頃な部屋は無いかと尋ねていた。自分が引っ越す訳ではなく仕事仲間の女子達の為だ。なかなか条件の合う家が見付からず困っている模様。
樹が室内に入ると綾は今受け取ったばかりの菓子を早速テーブルへ並べ始めた。‘俺が食べたら悪いよ’と断るも目が釘付けになっている樹へ、‘ワイワイ食べたほうが美味しいって!’とクスクス笑う。数回食べる食べないのラリーをしたが、結局ありがたく頂戴することにして、樹は椅子をひいて囍文字のクッションへ腰を落ち着けた。窓から吹き込む風が部屋に暖かな空気を運ぶ。この建物は花街と中流階級の境目くらい…割合と良いアパート。
「内見行った家、微妙だっは?」
「間取りとかは悪くなかったけど、水道から出るのがあんまり綺麗じゃない井戸水でさ。飲めないしシャワーすら無理っぽくて」
檸檬珈琲を片手にハグハグと曲奇を頬張る樹。綾はベランダの柵に寄り掛かり、煙草へ火を点けると髪をかきあげた。
スラムや貧困区での水問題。生活用水は各世帯に行き渡ってはいるものの、大きな水道管は秘密結社の管理下にあり、毎月それなりの金額が徴収──勝手なみかじめ料だが──されたりもする。使用料金を払えず外部から水を盗んでくる住民もいれば、どうにか井戸から汲み上げる住人もいるけれど、井戸水は廃水の如く汚い場合も多々。濁ってドロドロしている地域、悪臭のする地域、油膜が浮く地域、スス混じりの地域などバリエーション豊富で、パイプの漏れや腐食もそこかしこ。水の汚染は九龍城内の工場が原因でもあり、早急な排水設備メンテナンスが望まれるが…なかなか全体には手が回らないのが現状。
「中流エリアは考えて無いの」
「家賃がね…独りの娘はいいけど…でも燈瑩くんなら安めのとこ知ってるかぁ」
「と思う」
衛生面も中流階級までいけば改善されているし、富裕層地域なんて途端に綺麗なものだ。公衆トイレで野晒しになっているジャンキーの死体に出くわす可能性などゼロに等しい。が───どうしても家賃がネック、特に独りではない娘にとって。独りではない娘というのは…シングルマザー。子供を抱えていれば当然生活費は跳ね上がるし行動範囲や時間の制限も生まれる。そのあたりを熟慮し住居や勤める店舗などを慎重に選ばねばならない。
「ほんと、駄目な男に引っ掛かっちゃう娘も多いから…父親は誰だかわかんないとか…」
眉毛を寄せ白煙を空へ流す綾。駄目な男、の言い方が随分うらぶれていた。以前、綾の友人とその恋人──ではなかったようだけど──の間にもイザコザがあったのを把握していた樹は、小さく顎を引くだけに留める。まぁしかし、とにかく今はそこではなく‘子供’に焦点を当てている綾が続けた。
「重要なのは託児所とか幼稚園とか、そーゆーのだよね。店と提携してるトコに頼んでもいいけど、ウチはその辺しっかりしてます!なんて言って入店させて実際はクソでした。みたいなパターンもいっぱいあるもん」
些か語気を強める。仕事中に子供を預けておける場所、燈瑩が気にして綾へ尋ねていたのも似た様な事らしい。花街には女手ひとつで育児をしている母親が相当数居る。
「中流階級より上なら子育て環境イイけど。でも家賃とか生活費も余計にかかるし…けど預けてられるから仕事がたくさん出来てお金稼げるし…でも働き過ぎもよくないし、特に夜職は…けどイイ環境で子育てしたいし…って難しいよね。問題がループしてさ」
ハァと溜め息をつく綾は、空いた樹のグラスに珈琲を追加。手伝おうと立ち上がりかけた樹を制し、‘お客様は座ってて’とウインク。樹もウインクを返してみるもやはり微塵も上手くいかず完全に両目を閉じてしまった。まばたき再び。




