老豆と萬屋・前
悠々閑々1
「ごめんねぇ樹くん!急に頼んじゃって!」
「んーん、全然。ヒマだったし」
下から声を飛ばしてきた陳へと、電気系統の配線をイジくる樹は数メートル上より返事をした。ビルからハミ出た鉄骨に腰掛け、4階あたりの壁に張り付き着々と補修作業を行う萬屋。地上でハラハラ見守る老豆、心配性。手早く応急処置を終えた樹は軽い動作でジャンプし地面に降り立つと、次の場所へ行こうと陳を促す。狭苦しい路地をトコトコ前進。
本日の何でも屋の依頼人は陳だった。街のあちこちで発生しているインフラトラブルの解決に手を貸して欲しいとのご連絡。地表に近い所は自分達でどうにか出来るが、高所となるとにっちもさっちもいかず…樹へ仕事を頼んだという運び。
「樹くんはとっても身軽だなぁ。私もそんな風に動けたらいいんだけど」
「膝は?最近」
「酷いもんだよ!特に右膝の水の溜まりぶりったら、そりゃ大変!」
陳は愉快そうに言い放ち、愛嬌たっぷりにウインク。なぜ得意気なのか。
裏道を進む樹と陳のお目当ては、違法建築に違法建築を重ねた城砦を象徴するかのごとくカオスに絡まったワイヤー群。1階のメーター置き場から、生い茂る蔦さながら外壁を這って各建物へ延びている。銅線が剥き出しの部分も多々あり、それらがパチパチと不穏な音を立てている箇所の補修ツアーだ。
「東裕が燃えちゃったもんで、皆慌ててさ。だけど直そうにもジジババばかりだから身体がいうことをきかないんだよ」
困り顔で下唇を出す陳。東裕ビルの火事は起こるべくして起きたもの…ゴッチャゴチャの配線をほったらかしで使用していたら突然ショート、火を吹いた。当たり前である。
「西頭団地から電気盗んできてるのバレちゃって供給が止まって以降、各自好き勝手に家まで線繋げてたせいで…本当はキチッと整えたいんだけど…」
ポソポソ呟く陳に樹は頷く。城砦福利は建物内のいくつかの箇所へ高圧ケーブルを入れ変圧器をつけ変電所を設けたが、全くもって電気が足りない。住居用の供給はどうにかなったものの工場──製飴業からトイレのスッポン作りまで手広くやらせていただいています──用がどう足掻いても無理だった。これほどまでに多くの工場が城砦内に存在するとは政府も把握しておらず、数を少なく見積もり過ぎていたため需要に応えられなかったのだ。そも電線を配置するだけでも入り組んだ魔窟では労を要すというのに、恐ろしいまでの人口過密地域の九龍城全体への電気工事などという計画はまさに困難を極めた。
貧困区域やスラムにはあえて電気をひいていない箇所もあった。政府も住民も、互いに黒い場所へは灯りをともしたくなかったせいだ。九龍城の中流階級以下の建物でエレベーターがある棟はごく稀なのも、単に富の力の差なのではきっとない。
「前、ガサ入れにきたお巡りさん追い払ってくれたってきいた」
2箇所目、千切れそうなビニール線の補強をしつつ足下の陳をチラリと見る樹。陳はパタパタと掌を振る。
「あぁ!たいしたことはしていないよ、いくらか小銭を渡して帰ってもらっただけ。私に出来るのなんてそれくらいだから」
大井街の職人さんなんか‘出て行かないなら切っちまうぞ’ってノコギリ振り回したらしいよと陳。城砦の住人は一般人でもなかなか荒くれ者だ、安定の無法地帯。富裕層地域に行けばまだお上品だったりもするが…‘金持ち喧嘩せず’なんて諺通り。とはいえ、その格言にはにわかに同意がしづらい。いわんとすることは理解るものの、そうなると燈瑩や猫の手の早さがどうにも説明づけられないからだ。やはりもう最終的には金うんぬんより性格の問題だろう。
「こないだ東が香港で揉めちゃって、警察と。だから次来たら教えてくれると助かる」
「そうなのかい?何したの?」
「えっと…半グレ達とやりあって、撃ったり爆発させたりして通報されて…警官隊に取り囲まれて、匠がネズミのサングラスで、燈瑩も桑塔納のドアふっ飛ばしちゃって、最後は東に静電気」
「なるほど!相変わらずヤルねぇ東くん!」
今の口下手が丸出しの説明でなにが‘なるほど’なのかはてんでわからないが、ヒュウ☆と口笛を鳴らして再びウインクする陳へ、樹も何となくウインクを返してみる。微塵も上手くいかず完全に両目を閉じてしまった。ただのまばたき。




