アーバンアートとヒドゥンジェムズ
神韻縹渺1
中環、上環、湾仔、深水埗。香港では至る所でストリートアート文化に触れることが出来る。舞台公演や美術展など大規模な活動は勿論だが、やはり街の喧騒と活気を彩るのは、何気ない道端を飾る先鋭的なグラフィティ。溢れるクリエイティビティは混沌とした摩天楼での生活へ昼にも夜にも華を添える。
九龍城の細く入り組んだ道のコンクリートには、フリーハンドで路地名や番地が直接書きこまれていることが多々。滴るペンキ、各々表れる書き手の特徴。なかなか風雅な書体もあり、芸術作品よろしく写真集などにおさめられたりも。無論グラフィティもそれなりに点在。落描きやら風刺画やら、多種多様な絵画が魔窟に鮮やかな色を付ける。
そんなアートを眺めつつ──時々案内板として頼りにしつつ──樹は城砦を走っていた。万屋仕事のひとつの宅配業、安心安全迅速なお届け。お荷物は合法違法なんでもどうぞ。
社交街、龍津路、青年中心。下道を走り屋上を跳び縦横無尽に駆け回る。スラムから花街を抜け中流階級エリア。富裕層地域まではあまり行くことはないが──依頼があれば全然行くけど──道中、人々の暮らしを窺ったり新規の食べ物屋をチェックしたり。
松柏の甘味処、閉めたのか。でもガラス窓にリニューアルオープンって紙貼ってた。龍津道路側にあったスーパーは移転…あと二巷に新しい茶餐廳出来てたな。金益楼の屋上がちょっと崩れてた、こないだの台風から直してないっぽい。今日は通っちゃったけど次は回り道したほうがいいかな。
考えながら地上へ降り、途中で買った鶏蛋仔を囓ってトコトコ裏道を歩く。どこかの家から漂う広東料理の香り…蠔油。夕飯、海鮮系を東にリクエストしようか。
耳に入る音楽は二胡、喜洋洋。めでたい曲。子供の笑い声がする。すぐそこの広場からも────
「わ、すご」
何の気なしに視線を向けた広場、というか、空き地。奥の壁一面に描かれたイラストに目を奪われ、樹は思わず独り言をこぼした。
正直…絵に関しての知識は全く自信がない。なんだか良いな、なんだか不思議かな、なんだか素敵だな。そんな程度の感想しか出せず評価など出来る訳もなかった。なので、どこがどうすごいのか、説明をするのは難しくはあったが。
鶏蛋仔を食べつつ歩み寄りウォールアートをマジマジと見た。人物画。写実的な箇所とデフォルメされた箇所がバランスよく混ざっている。油絵のように表現された部分は洗練されて美しく、イラストのように表現された部分は親しみやすく可愛らしい。周りを取り囲む様々な小物はお菓子にオモチャ、草花エトセトラ。一見バラバラに感じるモチーフを淡く明るく光に溢れた色遣いが綺麗にまとめている。この一角だけが突然スポットライトを当てられたかのごとく燦然としていた。
気が付くと手の中の鶏蛋仔が無くなっている。いつの間にか平らげてしまったらしい、絵を鑑賞するのに思いのほか没頭していた。いやはや、感想としては‘なんかすごい’くらいの語彙力しか持ち合わせていないのだが…ん?そういえばさっき聞こえた笑い声、広場からのはずだったけど───ふと樹は背後に気配を感じて振り返る。
乱雑に積み上がった廃品の陰。小さな頭が、2つ並んでこちらを凝視していた。
突き刺さる眼差し。暫しそうして見つめ合っていると、2つの頭はなにやらコソコソ相談を始め…話がついたのか、意を決した様子で物陰から飛び出してきた。
手を繋いだ子供だ。両方とも紅花と同程度の年頃か?もう少しだけ大きいか?樹の前で足を止め、大きな瞳で見上げてくる。
「どうなのですか」
「どう、って?」
「良いなのですか」
「良い、って?」
交互に訊かれ交互に返す樹。期待に満ちた4つの眼…これは、この絵についての質問?だよな?
「俺はすごい好き」
かなり端的ではあるものの、樹が答えると、2人はキャアキャア飛び跳ねた。
「さすが十です。やはり十は天才なのです」
「尾の力です。尾は才能があるのです」
互いの掌をくっつけて、ニコニコと賛辞を交わしている。樹はしゃがみ込み2人と目線の高さを揃えた。
「これ、2人が描いたの?」
「十が描いたのです」
「尾が描いたのです」
ハモって指を差しあい、キョトンと顔を見合わせ、それから‘が’を‘と’に言い直した。
「すごいね。えっと…十?と、尾?」
顎に親指を当てる樹。この少女達、どちらがどちらか微妙に見分けがつかない…とてもよく似ている。目の前の2人は再びニコニコ笑うと樹へ向けて腕を伸ばした。
「あなたはどなたなのですか!」
「お名前を教えてくれますか!」
樹はそれを右手と左手でひとつずつそっと掴み、樹。よろしく。と握手をした。




