大福と大脱走・後
両鳳連飛6
直進すれば目的地だが────逡巡して立ち止まる2人。カーテンの脇に寄り、耳をそばだてた。
殷は誰かとなにやら話している。どことなく険悪…相手は店の人間ではなさそう、客か。また声が響いた。
「もう【十剣客】も消えたんだ、仕事を選ぶ理由もないだろ?首領」
「【十剣客】ではないからこそ選ぶんだよ。その呼び方はやめてくれ」
グラスでカランと溶ける氷。殷のトーンはかなり低いが、もう一方の男はどこか愉快そうな口振りで続ける。
「報酬が足りないならもっと引き上げるぜ。金だろ。女にも薬にも喰い付かねぇもんな…ま、信用出来るのは現金だけっつうことか」
「貴様の見解も正しいが。1番は依頼内容の問題だよ」
「まだターゲットを見てもないのに?」
「見なくても判る。こういった件には関係のない一般人だろう」
「戯言いうなよ、九龍の一般人なんてたかが知れてる」
殷の返答を鼻で笑う男。
「そもそも、綺麗事吐かせるご身分なのか?散々殺してきておいて。どう転んだって暗殺稼業だろ、【十剣客】もお前も───お前の家族も」
パキッと、空気にヒビが入る音がした。
明らかに地雷。だが、男もわかっていて踏んだようだった。挑発。そして、‘今さら仕事を選んだところで仕方が無い’といった説得でもある。
眉をあげる彗。【十剣客】が暗殺稼業なのは何となく聞いていた、けれど…お前の家族とは?殷はもともと【十剣客】ではないとのこと。となると‘家族’が指すのは【十剣客】以外の殷本来の身内────脳裏に宝珠が過ったが、いや、それは違う気がする。蓮に視線を寄越すもフルフルと横に振られる首。そこまでは知らない様子。彗は床スレスレへ頭を下げ、カーテンの隙間から部屋を覗いた。男の姿は死角で見えない…ソファに腰掛けている殷は無表情。
たっぷりの沈黙のあと、長い溜め息をついて言葉を紡ぐ殷。
「ターゲットもそうだがな。この一件を断る最大の理由は…貴様らだよ。貴様らのように臓や腑まで腐ったような人間が、自分は厭わしい。本当に虫酸が走って────如何ともし難いんだ」
硬質な声調がヒビ割れに当たり、空間が砕け散る。
「敵対するのか?」
「やぶさかではないな」
「自信家だねぇ」
「別に。されど、心付き無ければ、まぁ…」
男の問いに、足元へガシャガシャ落ちた空気を座ったまま靴底で踏みつけ殷が嗤う。数人が身構えたのを察し、彗は即座に三節棍へ指を伸ばした。ここからでは確認出来ないものの、相手側は片手程の人数は居るようだ。
しかしそんなことは意に介さず、殷はベロア調の背凭れに深く体を沈める。腰に下げている得物に手をかけもしない。唯一、眼差しだけが鋭さを増した。ゆっくり口を開く。
「斃せるかどうか、試してみたらいい。今…此処で」
数瞬の静寂。
緊張を裂いたのは──────甲高い、犬の鳴き声だった。
キャン!と吠えた小型犬。やはり通路の奥、ロッカールームだ。出処を気にした男達の注目が入り口に集まり始めたので、彗は覗かせていた頭を慌てて引っ込めた。
室内の雰囲気が急激に弛む。お話し合いは中断…というより終了したらしい。衣擦れの音が聞こえ、彗はクイッと顎で蓮を誘導。鉢合わせはマズい。皆が部屋から出てくる前に、2人は静かに目的地へと駆けた。
角を曲がった突き当たり、扉の開いている更衣室。最後に使用した人間がキチンと閉めて行かなかったのか…元より特に鍵などは付いていないだろうが。ドアを押して中に入る。暗い。電気を点けては目立ってしまう、携帯電話のライトで辺りを照らす彗。視界の端でカサカサと何かが動いた。
「居た!大福!」
白くて小さな吉娃娃が、簡易ケージに囲われパタパタ尻尾を振っている。蓮に光源を渡して吉娃娃を抱き上げればすぐさまペロペロ頬を舐めてきた。この人懐っこさが連れ去りに遭ってしまった一因でもありそう…思いつつ、彗は‘大地に微信して’と蓮へ促す。無事捕獲したので裏口のセキュリティーを何とかしてほしいと伝達。
「上手く出られましゅかね」
「イケるイケる、大地だって意外に頼れるとこあんだか───…」
「誰だお前ら」
彗の返答に重なって、太い声。驚いた蓮がスマホを手から滑らせた。振り返った彗の目に暗がりでぼんやり映る輪郭、スーツの中年。店のスタッフか?
携帯を拾おうと屈む蓮、その蓮の首根っこを男が掴もうとし、彗は叫ぶ。
「ごめんオッサン!!」
まばたきのうちに組み立てた三節棍が、男の下顎にヒットした。地面に倒れ込むスーツ、彗の腕から逃げ出す大福。肉球に頭を踏まれた蓮がキャンと鳴く。
「あ、大福逃げたっ」
「へ!?」
「蓮行って!」
言いながら蓮の手からスマホを奪う彗。蓮が焦って吉娃娃の跡を追う。犬が向かったのは幸いにも非常口方面…このまま行けば、外へ出られるか?大地の返信に目をやった。
〈做信號!〉
なにかしらの合図があるらしい。携帯をポケットに押し込んだ彗が大福と蓮へ追い付くと、2匹は狭い通路で睨み合いの真っ最中。裏口の鉄扉を背に片膝をつき、両手を広げている蓮。その正面で毛を逆立て臨戦態勢をとる大福。どういう状況なのか。
「なにしてんのよアンタら」
「いや、それが…なぜか僕には全っ然懐いてくれなくって…」
半目の彗へ蓮がヒソヒソ囁く。扉の向こうにはセキュリティーの連中が立っているようだ。大福は蓮に敵意を剥き出し、勃発する吉娃娃同士の負けられない争い。
すると。
「撃たれた!例のチンピラの襲撃だ!」
大地の怒鳴り声───合図。セキュリティーがどこかへ移動していく気配がした。
「蓮開けて!ドア!」
パパッと掌を振る彗に頷きドアノブをひねる蓮、開放された扉めがけて大福が飛んだ。肉球に頭を踏まれた蓮がキャンと鳴く。
路地裏へ走る大福、蓮と彗も建物を転がり出た。どっちへ行った?右───じゃない、左か。表玄関と反対側の脇道。急いで路地を抜ける。と、大福を抱えて物陰に座っている寧が居た。
「寧!ナイス!」
「た、たまたまこの子が走ってきたから」
賛辞と共にワシャワシャと髪を撫でる彗に、恥ずかしそうに俯く寧。別の路地からやってきた大地と宝珠も合流した。
「寧さっすがぁ!やっぱり犬捕まえるの上手だね!」
「や…たまたまだってば…」
「堂々としなさいよ、ほんと控え目ね寧は」
パチッと指を鳴らす大地、ますます俯いて縮こまる寧の髪を彗はさらにワシャワシャ撫でた。全員でスタコラとバーから遠ざかる。
「サンキュー大地、タイミングばっちりだったじゃない」
「でしょ!宝珠のおかげなんだけどさ」
彗の称賛に大地はシシッと笑って宝珠へウインク、宝珠もクスリと口角をあげる。
彗から連絡を受けた大地は非常口傍の小道で寧を待機させ、宝珠を連れて正面玄関付近が見下ろせる建物へ。そして宝珠がパチンコを使い、入り口のネオンへと鉄球をいくつかショット…ライトが割れたと同時に大地があたかも銃撃されたかのように怒鳴り、場を撹乱させたという流れ。
「へー、やるじゃん。でも‘例のチンピラの襲撃’って何だったわけ?」
「え?わかんない。適当。あーゆー店って、常になんか揉めてそうだから」
「あははっ!」
首をかしげる彗へ事も無げに返す大地を見て、お腹を押さえて笑う宝珠。寧の腕の中で大福が楽しそうにキャウンと吠えた。
───飼い主へ犬を受け渡しに行く道中、蓮がそろっと彗の袖を引く。
「あの…殷さんの件、どうします…?」
彗は目を細めて宝珠の後ろ姿を見詰めると、暫く思索し、それから息を吐いた。
「どうもしない。殷が喋んないなら彗達が首ツッコむことじゃないでしょ。でも…もし何かが起きたりしたら、誰かに話すかどうかは蓮の判断に任せるわ」
その時は彗もそうするし。言って、掲げられた拳に、蓮も拳をコツンと合わせた。




