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九龍懐古  作者: カロン
過日残夜
285/492

育毛剤と五十肩

 





───少しだけ、あの夜を思い出していた。






過日残夜1






「頼む、この通り!(アズマ)くんしかいないんだよぉ!」


目の前で両手を合わせ、ペコペコと頭を下げる男。俯く度に薄くなった頭頂部が見える…育毛剤、オマケでつけてあげようかしら…思いながら(アズマ)は溜め息を()いた。


「何で俺なのよ?他に居るでしょ頼れる人」

「いないよぉ!!いないからお願いしてるんだよぉ!!」


涙目のオッサン───(チャン)はメソメソと(アズマ)に追い縋る。(イツキ)はその光景を月餅を齧りつつ眺めていた。


(チャン)は【東風】に漢方を買いに来る常連客。絶賛更年期障害真っ只中、この蒸し暑い九龍で年中身体の冷えに悩まされている。普段はもっぱら丸薬や粉薬などを購入していくが、本日の来店は全くもって別の相談事。



新宝公司という建設会社の敷地内に、一緒に潜入してほしいとの依頼だった。



新宝公司は貧民街やスラムなど、下層階級の若者を集め山奥で何やら土木工事を請け負う業者。ここ最近城砦内でチラホラ名前を聞くようになった比較的新参の会社…(チャン)はそこに潜り込んで寮内や従業員名簿を見に行きたいとのことだ。


「老い先短いジジィの最後の頼みだと思って!ね!後生だから!」

「そんなに歳食ってないじゃないの。還暦もまだでしょ」

「もう近いよぉ」

「そうだっけ?んじゃ紅包(おいわい)用意しなきゃ」

「え?本当?(アズマ)くん優し…じゃなくてぇ!!お願いお願い!!」


のらりくらりとかわす(アズマ)に食い下がる(チャン)。フードを掴まれてブォンブォン揺すられ、(アズマ)は天井を見詰めた。


侵入となると‘鍵開け要員’が要る。ピッキングは確かに得意技、前に鍵を無くしピィピィ言っていた(チャン)の物置も針金で開けてやった事がある。それを覚えていての人選か。

にしても、こういうの【天堂會】以来だな…ボケっと考える(アズマ)の耳元で、頼む頼むと(チャン)が連呼。騒々しい。


(チャン)は城砦の下町でそれなりに人望のある男だ。時折ちょっかいをかけてくる警察なんかも──腕っぷしは弱いのでちまちま小銭を渡して──追い払ってくれる。(アズマ)もたまに(チャン)がどこかから仕入れてきたレア物の老酒を買い取ったりしており、まぁ何と言うか、仲良し(・・・)ではあった。



仕方ない。



「わーかったよ!行ってあげる!てかなんでそんなに入り込みたいのよ新宝公司(そこ)に?」


了解の返事をもらい明るい雰囲気を見せた(チャン)だが、(アズマ)が次いだ質問にすぐショボンと口をへの字に曲げる。


劉帆(リュウホ)が帰ってこないんだよ」


劉帆(リュウホ)とは貧民街に住んでいた人柄の良い快活な青年で、(チャン)は彼を息子同然に可愛がっていたらしい。けれど住み込みの仕事をしてくると言って家を出てから久しく、以降は連絡も皆無。どうやら新宝公司の建築現場へと出稼ぎに行った模様。様子を見る為に(チャン)も新宝公司へ派遣バイトの打診をしたが門前払い、年齢も年齢だし体力も無さそうだったからだろう。もちろん劉帆(リュウホ)の事を訊けども教えてはもらえず。悩んだ末、(チャン)は侵入を試みることに決めたらしい。割かし大胆なオッサン。


劉帆(リュウホ)って奴、九龍(ここ)出て普通にどっか他の街に行った可能性は無いの?」

「地域の(みんな)とも仲良くしていたから、黙ってそのままどこかへ行くようなことはないはずなんだよ…礼儀正しい子だし…」


首を傾げる(アズマ)、腕組みをする(チャン)九龍城(このまち)で人の印象などはてんで当てにならないことが多いが───ここは(チャン)を信じるとしよう。


「端午節で街がバタバタしてる今がチャンスだと思うんだ。工事現場も(おお)もとの社員達はきっと休みだし、いつもより色々と手薄なんじゃないかなぁって!ね!?」


場所も調べてあるんだよっ!と(チャン)はスマホでマップの画面を見せてくる。相当山奥。


「準備いいな。物知りね(あんた)、どこから仕入れたのよその情報」

「この山林は以前美東村に所有者が居た区画でね、城砦福利の一部(いちぶ)にも使用権利があったんだ。今はもう所有権自体は関係無いけど、まだ噂は入ってくるんだよ」


感心する(アズマ)(チャン)は得意気にウインク、意外にフサフサな睫毛が揺れた。可愛くはない。


「…俺も行く?」


(イツキ)が上目遣いで尋ねてくる。しかし、顔に大きくハッキリ書いてある‘端午節’の文字。


きたる祝日端午節に備え、香港及び九龍城砦は熱気が上昇中。街を包む祝賀ムード、始まりだすイベントの数々、この祭事に付き物の(ちまき)を片っ端から食べ歩こうと(イツキ)がいつもの面子(メンツ)と約束をしていたのを(アズマ)は知っていた。

唯一の趣味である大食い──大食いが趣味のカテゴリに入るかはさておき──を取り上げるわけにはいくまい。


「だいじょぶよ。お祭り楽しんできて?ま、ヤバそうだったら呼ぼうかね」


(アズマ)がヘラッと答えると、申し訳無さそうにしつつ瞳を輝かせる(イツキ)


決行は早い方がいいか、今日も別に暇だし。暗くなったら行ってみましょと提案する(アズマ)(チャン)萬歲(ばんざい)と両手をあげる。


「ありがとう(アズマ)くん!本当にっ好痛(ぁいたた)!」

「なに?五十肩?」


変なポジションで固まる(チャン)(アズマ)に手伝われてやっとこさっとこ腕をおろすも、痛みが取れずショモショモしている。泣き顔の絵文字みたいな表情。ぴえん。(イツキ)(チャン)に新しい月餅を差し出した、お見舞い。


また夜に戻ってくると言って店を出て行く(ぴえん)を見送り、(アズマ)はスクーターの鍵を探す。最近全然使ってなかったけど動くかしら?燈瑩(トウエイ)、大型持ってたっけ?そっち借りたほうがいいかな…桑塔納(サンタナ)はちょっと…。どれを足に選ぶか悩んでいると、(イツキ)がチラシを2枚突きつけてきた。龍光堂と吉祥賛記の文字。


「どっちの(ちまき)がいい?」


土産(みやげ)の話であろう。印刷されたイラストを見るに肉巻きor海鮮。足と違ってこれは選ぶ必要が無かったので、‘両方買っておいで’と(アズマ)は笑った。

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