ペンダントとクリスタル・後
身辺雑事7
「睿くん!」
気付いた桂子が駆け寄る。睿、もとい浩宇───もはや名前など何でもいいか。きっと両手でも足りないほどあるだろう。男は桂子を抱きとめジロリと3人を見やる。鋭い眼光。だが、なるほど、風聞に違わず甘いマスクのイイ男だ。
匠はポケットに突っ込んでいた手をさり気なく出した。上が口を開きかけたが、それより早く綾が吠えた。
「いい加減にしてよ!!アンタ、女の子引っ掛けちゃ貢がせたり売り飛ばしたりしてんでしょ!?桂子から離れなさいよ!!」
なんとなく状況を把握した浩宇は、‘離れないのは俺じゃなくて女の方だ’と嗤う。その通りではあるのだろう、現に桂子だって、こんな場面だというのに未だ男の横にひっついている。桂子は眉を下げた。
「ねぇ、ケンカしないでよ…私は睿くんのこと大好きなの。役に立ちたいの。でも、綾のことも大好きだから…ね、仲良くして?」
「何言ってんのよ桂子も、出来る訳ないでしょ!!金巻き上げられて売られそうになってどうしてまだコイツが好きなの!?」
捲し立てる綾に、だって、だってと針の飛んだレコードのように呟く桂子。浩宇は大きく溜め息を吐き懐から何かを抜いた。ピストル。綾へと銃口を突き付ける。
綾が目を見開き、青ざめた桂子が飛び出して綾を抱き締めた。
「睿くん駄目!!」
片眉をあげる男、桂子の行動が意外だったのか。上が眼球だけを動かして匠に問い、匠は応えて心なしか目を細めた。
「駄目、睿くん、綾は駄目…友達なの」
悲痛な声音で訴える桂子を男は無表情に眺める。そもそもコソコソと周囲を嗅ぎ回っていた綾が邪魔だったのだ、今日は得体の知れないオマケまで連れてきて。上と匠が自分にとって好意的な人間ではないことは一目瞭然…浩宇は逡巡する。
上は握っていた携帯を浩宇へ投げた。急に飛んできた物体に気を取られる男、同時に匠が距離を詰め、スマホを払うその手の中のピストルを蹴り飛ばす。匠はそのままピストルを追って拾い、振り向きざま片膝立ちで男に向けて腕を上げた。男も新たに銃を取り出し匠に向ける。重なる照準、桂子の悲鳴。
「やだぁ!!仲良くして、ねぇ、ケンカしないで。私もっと頑張るから…じゃあ、深圳に行かなくてもお金が用意出来たらいいかな?いっぱい働いて、そしたら…」
「そういうことじゃないわよ!!こいつと一緒に居ちゃ駄目だって言ってんの、見なさいよこの状況!!」
「なんで?なんで…怒らないで、綾…睿くんも、じゃあ、じゃあ深圳に行ったらいい?どうしたらいい?だって…わかんないよ…ケンカ、だから、好きなの?なんで?」
髪をグシャグシャ掻きながら桂子が喚く。支離滅裂。チャンポンしている薬のせいだろう、恐らく与えられていたドラッグ以外にも手を出している…浩宇に見切りをつけられた理由。綾は唇を噛む。
数秒の沈黙があって───浩宇が僅かに身じろいだ。察知した匠も人差し指に力を込め、2人がトリガーを引きかけた刹那。
桂子があいだに身体を滑り込ませた。
「やめて!!!!」
浩宇を背に庇うような姿勢。桂子と視線がぶつかった匠の指先がギリギリで止まる。が…ふたつほど発砲音が轟き、一瞬の間の後、桂子の口から血が溢れた。
淡い色のブラウスが背中側から朱に染まる。桂子はゆっくりと後ろを振り返り浩宇を見据えた。ピストルから薄く立ち昇る煙。
崩れ落ちる桂子を男は不機嫌そうに見下ろし、肩を竦めて‘売り損なった’と舌打ち。商品を撃つつもりは無かったのだろう。
「ったく…使えないな…」
吐き捨てられた科白に上と匠の表情が変わったが、先に動いたのは綾だった。
突如として腹のあたりに衝撃を感じた浩宇が首を向けると、目に映ったのは…脇腹へ深く突き刺さったビール瓶のガラス片と、それを両手で持った綾。数瞬の硬直、そして、再び銃口が綾に向いて────パンッと乾いた音。
浩宇の整った二枚目面が弾け飛ぶ。地面に倒れ込むその身体の向こうで、匠が銃身を軽く振って硝煙を払った。綾は茫然としたが、すぐに我に返ると桂子に寄り添い上半身を抱きかかえる。
「桂子っ…」
桂子は名前を呼ぶ綾を見て、数回まばたきをした。けれど───それだけだった。輝きを失う瞳孔と、重くなる身体。最後の言葉も何も無かった。
呆気ない。こんなものなのだ。どんな感情があったって、思い出があったって、消え去る時は一瞬。感動的なラストなどメロドラマでなければ用意されていない。綾の瞳から透明な雫が桂子の頬へとポタポタ落ちた。
血も涙もないな。思いながら、血と涙に濡れた桂子の頬を撫で、半分開いたまま止まってしまった彼女の瞼を閉じさせ───綾はその栗色の髪を梳く。ゆっくりと優しく。ゆっくりと、優しく。その時ふと、桂子の首に目が留まった。
襟元から覗く、金色のチェーンに下がった、ペンダントトップ。もう外してしまっているかとも諦めていたが。
───可愛いから2人でしようよ!私、ずっと大切にする!
「…ほんと…馬鹿なんだから…」
呟く綾の傍へ立った上が、何か声を掛けようとし…やめて、かわりにストールを外した。汚れてしまった桂子の服をそっと覆う。
日も差さない路地裏。雑然と散らばるガラクタ。紅く染まった胸元、はだけたブラウスの下で、揃いのネックレスだけが────ただ綺麗に光っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「で、慰めに来てくれたワケね」
幾日かが経ち、いつものピンクカジノ。カウンターに肘をついてクスクスと笑む綾に猫が鼻を鳴らす。
「そーそー。猫様、優しいから」
「気にしなくてよかったのに」
よくあることじゃん。
乾いた声で綾はこぼす。よくあること。日々巻き起こる、取るに足らない事件のひとつ。桂子の死体だって、浩宇の死体だって、血塗れの路地裏だって、すぐにお掃除された。誰が居ようが誰が居まいが変わらずに過ぎる日常。九龍城砦は今日も平和に回っている。
生返事をしつつ、両隣の席へRESERVEの札を投げる猫。とはいえ人身売買にドラッグに【黑龍】──の話は綾は知らないが──と、当初の想定よりはゴチャゴチャした一件だった。手を付けなければ問題は花街全体にも広がっていただろう、面倒事を早々に処理できたのはありがたい…猫は‘泡モン抜くからグラス出せよ’とテーブルを指でノック。
「なに注文してくれるの?」
「この前と同じの」
「え、マジ?クリスタル?」
綾が目を丸くする。先日猫が卸したクリスタルは1万5千香港ドル、なかなかの代物。ちょっと待ってねと奥に引っ込み、シャンパンクーラーにボトルを1本差して運んでくる綾に、猫は少し頭を傾けた。
「何してんだよ」
「え?これでしょ?」
「2本だろ。オメェとダチのぶん」
数秒固まり、それから弾けるように笑う綾。ちょうどやってきた上と匠に‘いらっしゃいませ!’と元気に手招き、踵を返して追加のクリスタルを取りに行く。猫の耳元に顔を寄せる上。
「ちょ!もうシャンパン頼んでん?俺あんま金あらへんで、払てやりたいんは山々やけど…なんぼするんそれ…」
「いーよ、お前は安いのオマケで開けてやれ。クリスタルは1本燈瑩にツケる」
「いやいやいやそれは!なんかそれは!か、かっこつかんやん!」
「じゃ割り勘しよーぜ、スノーマン」
「ぁんだよスノーマンって?」
「お待たせぇ♪ありがとうございまぁす♪」
上の肩を叩く匠、猫が首をかしげた。綾は明るい笑顔でボトルを2本カウンターに並べ、コルクへと指をかけ勢いよく開栓。飛び散った泡が上へと粉雪さながらホワホワくっつき、‘まじ雪ダルマ!’と吹き出す匠に綾もまた笑う。
その綾の首元。同じデザインのペンダントトップがふたつ。仲睦まじく、寄り添って────キラキラと揺れていた。




