‘いつか’と龍船花
愛及屋烏14
幾日かが過ぎ。
老虎が消えた件は巷で少々話題になった。が、それだけ。裏社会とそれなりに繋がっていた人間が魔窟で消息を絶ったのだ、深堀りしたい物好きはいない。誰だって余計な問題は避けたいのである。
真実を知った美麗はあれ以来ふさぎ込んで…など全くおらず、変わらずに家事や食肆の雑事を手伝いよく働いてくれた。こういう時はどうも女性の方が気丈で強い。‘男は結構弱っちいからね’と電話の向こうで──様子見がてらご飯を食べに来ようとしたが、樹にバレてガッチガチにディフェンスされ出てこられなかった──燈瑩が笑った。蓮は食肆の入り口で通話をしながら、ホールに食器を並べる美麗を見る。
この光景を眺めていられるのもあと僅かだ。
「で、美麗ちゃんが出発したい時に出発できるように手配したから。いつでも声掛けて」
「あっはい!!有り難うございましゅ!!」
燈瑩の言にペコリとお辞儀の動作をする蓮。ビデオ通話ではないのだが。
日々のバイトで幾許かの生活費を手にし、美麗は旅立ちの準備を整えていた。老虎の一件の犯人は有耶無耶になってはいるもののこのまま城砦にいる訳にもいかない…それに友人が故郷に残してきたという幼い兄弟達のことが気掛かりだった。古里は香港からは少し遠く、中国の外れの田舎町。そこまで送り届ける足を燈瑩は用意してくれていた。
…本当は。九龍に残って欲しかった。
けれどそんなワガママは言えない、蓮は1人で首を横に振る。蓮とて小さい頃から家族を失くした者同士で身を寄せ合い生きてきた、まだ年端もゆかない幼子達を手助けに向かう美麗を止めることなどは土台無理だ。そして現状、自分も九龍での役割を放りだして美麗と共に行くことも叶わない。つまりどう足掻いても────
「蓮君」
「ふぁいっ!?」
名前を呼ばれ意識を引き戻す蓮。なんだかさっきから返事が喧しいな僕は…ガシガシ頭を掻いて、もう1度‘はい’と繰り返す。燈瑩が普段よりも数段柔らかい声で紡いだ。
「大丈夫だよ。今もし、少し違う道を歩いたとしても…また会えるから。ね?」
蓮は口を噤む。
あの襲撃のあと、何となくだが、燈瑩の事情を把握した。もちろん猫だって上だって余計な事は語らない、皆の雰囲気や会話の端々でうっすらと察しただけ。
…会いに行かないのか?なんて、随分大きなお世話だった。なのにこうして優しい言葉をかけてくれる。気の利いた返しが思い付く筈もなく、‘はい’と三度頷きながら、蓮は相変わらず自分の語彙の貧困さに歯噛みした。
週末。九龍へ来たときと同じ様に、白いワンピースを着て鞄をひとつ持った美麗が城砦の出口に立つ。見送りは蓮と猫だけ。みんな、なにやら気を遣ってくれたらしい。
というか逆に、師範が顔を出したのが意外…思いつつ蓮が礼を述べると猫は‘ヒマだったからな’と欠伸。絶対に嘘。
迎えの車が路肩に停まり、美麗はスカートを翻して2人に振り返った。
「猫さん、蓮さん、お世話になりました。他の方々にもよろしくお伝え下さい」
深々と頭を下げる。何もお礼も出来なくて、と申し訳無さそうに笑んだ。
「美麗さんには僕こそ、食肆の事とか身の回りの事とか助けてもらって!お世話になりました!えっと、道中気を付けて下さいね。他にも、色々大変かとは思いますが」
しどろもどろで声を掛ける蓮へ、小さく顎を引く美麗。凛とした眼差し。
「私も…皆様のように歩いて行きたいので」
九龍で接した人々に教わったのだと、美麗は胸に手を当てる。城砦での日々は彼女の心に何か変化をもたらせたのだろう。そして自分がその一助になれたことが、蓮は素直に嬉しかった。
それでは、と呟く美麗。声音にはどこか名残惜しさが混じっていた。いや、そう聴こえただけか…僕が名残惜しいから…唇を横に結ぶ蓮。みんな、それぞれの道がある。わかっている。わかっているけど─────声を押し出した。
「あの」
今もし、少し違う道を歩いたとしても。
「いつか…会いに行っても、いいですか」
その道の先でまた、会えたら。
美麗が、‘喜んで’と大輪の華のような笑顔を咲かせる。潤む瞳を誤魔化し視線を下げる蓮に、そっと白いハンカチを手渡した。
「こちら…お貸ししておきますね」
出逢った日に、鼻血で真っ赤にしてしまったハンカチ。蓮はそれを受け取り、湧き上がる哀情を堪えて顔を上げると、最大限に明るく笑った。車に乗り込む後ろ姿に両手を振る。遠ざかるテールランプ。
「泣くな鬱陶しい」
美麗が去りシンとした路上、ズビズビと鼻をすする蓮に溜め息をつく猫。ハンカチを汚したくないのか吉娃娃は袖口でグシグシ涙を拭いている。猫はタバコに火を点け煙を輪にして吐き出した。
「惚れてたのかよ」
「わ…わかんないでしゅ…」
返答しつつヘナッと耳と尻尾を垂れる小型犬。猫はその髪をクシャリと撫で、少し眉を下げて言った。
「イイ女だったな」
「……はい…!」
城砦の風に乗ってそよぐ龍船花の薫り。この甘ったるくて儚い匂いを、多分、これからも忘れることはないんだろうと───滲む九龍の灯りを見詰めながら蓮は思った。




