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九龍懐古  作者: カロン
愛及屋烏
249/492

‘いつか’と龍船花

愛及屋烏14






幾日かが過ぎ。




老虎(ラオフー)消えた(・・・)件は(ちまた)で少々話題になった。が、それだけ。裏社会とそれなりに繋がっていた人間が魔窟で消息を絶ったのだ、深堀りしたい物好きはいない。誰だって余計な問題は避けたいのである。


真実を知った美麗(メイリイ)はあれ以来ふさぎ込んで…など全くおらず、変わらずに家事や食肆(レストラン)の雑事を手伝いよく働いてくれた。こういう時はどうも女性の方が気丈で強い。‘男は結構弱っちいからね’と電話の向こうで──様子見がてらご飯を食べに来ようとしたが、(イツキ)にバレてガッチガチにディフェンスされ出てこられなかった──燈瑩(トウエイ)が笑った。(レン)食肆(レストラン)の入り口で通話をしながら、ホールに食器を並べる美麗(メイリイ)を見る。


この光景を眺めていられるのもあと(わず)かだ。


「で、美麗(メイリイ)ちゃんが出発したい時に出発できるように手配したから。いつでも声掛けて」

「あっはい!!有り難うございましゅ!!」


燈瑩(トウエイ)(げん)にペコリとお辞儀の動作をする(レン)。ビデオ通話ではないのだが。

日々のバイトで幾許(いくばく)かの生活費を手にし、美麗(メイリイ)は旅立ちの準備を整えていた。老虎(ラオフー)一件(いっけん)の犯人は有耶無耶になってはいるもののこのまま城砦にいる訳にもいかない…それに友人が故郷に残してきたという幼い兄弟達のことが気掛かりだった。古里は香港からは少し遠く、中国の(はず)れの田舎町。そこまで送り届ける足を燈瑩(トウエイ)は用意してくれていた。



…本当は。九龍(ここ)に残って欲しかった。



けれどそんなワガママは言えない、(レン)は1人で首を横に振る。(レン)とて小さい頃から家族を失くした者同士で身を寄せ合い生きてきた、まだ年端もゆかない幼子達を手助けに向かう美麗(メイリイ)を止めることなどは土台無理だ。そして現状、自分も九龍(ここ)での役割を放りだして美麗(メイリイ)と共に行くことも叶わない。つまりどう足掻いても────


(レン)君」

「ふぁいっ!?」


名前を呼ばれ意識を引き戻す(レン)。なんだかさっきから返事が(やかま)しいな僕は…ガシガシ頭を掻いて、もう1度‘はい’と繰り返す。燈瑩(トウエイ)が普段よりも数段柔らかい声で紡いだ。


「大丈夫だよ。今もし、少し違う道を歩いたとしても…また会えるから。ね?」


(レン)は口を(つぐ)む。


あの襲撃のあと、何となくだが、燈瑩(トウエイ)の事情を把握した。もちろん(マオ)だって(カムラ)だって余計な事は語らない、皆の雰囲気や会話の端々でうっすらと察しただけ。

…会いに行かないのか?なんて、随分大きなお世話だった。なのにこうして優しい言葉をかけてくれる。気の利いた返しが思い付く筈もなく、‘はい’と三度(みたび)頷きながら、(レン)は相変わらず自分の語彙の貧困さに歯噛みした。






週末。九龍(ここ)へ来たときと同じ様に、白いワンピースを着て鞄をひとつ持った美麗(メイリイ)が城砦の出口に立つ。見送りは(レン)(マオ)だけ。みんな、なにやら気を遣って(・・・・・)くれたらしい。

というか逆に、師範が顔を出したのが意外…思いつつ(レン)が礼を述べると(マオ)は‘ヒマだったからな’と欠伸(あくび)。絶対に嘘。


迎えの車が路肩に停まり、美麗(メイリイ)はスカートを(ひるがえ)して2人に振り返った。


(マオ)さん、(レン)さん、お世話になりました。他の方々にもよろしくお伝え下さい」


深々と頭を下げる。何もお礼も出来なくて、と申し訳無さそうに()んだ。


美麗(メイリイ)さんには僕こそ、食肆(おみせ)の事とか身の回りの事とか助けてもらって!お世話になりました!えっと、道中気を付けて下さいね。他にも、色々大変かとは思いますが」


しどろもどろで声を掛ける(レン)へ、小さく顎を引く美麗(メイリイ)。凛とした眼差し。


「私も…皆様のように歩いて行きたいので」


九龍(ここ)で接した人々に教わったのだと、美麗(メイリイ)は胸に手を当てる。城砦での日々は彼女の心に何か変化をもたらせたのだろう。そして自分がその一助(いちじょ)になれたことが、(レン)は素直に嬉しかった。


それでは、と呟く美麗(メイリイ)。声音にはどこか名残惜しさが混じっていた。いや、そう聴こえただけか…僕が名残惜しいから…唇を横に結ぶ(レン)。みんな、それぞれの道がある。わかっている。わかっているけど─────声を押し出した。


「あの」



今もし、少し違う道を歩いたとしても。



「いつか…会いに行っても、いいですか」



その道の先でまた、会えたら。



美麗(メイリイ)が、‘喜んで’と大輪の華のような笑顔を咲かせる。潤む瞳を誤魔化し視線を下げる(レン)に、そっと白いハンカチを手渡した。


「こちら…お貸ししておきますね」


出逢った日に、鼻血で真っ赤にしてしまったハンカチ。(レン)はそれを受け取り、湧き上がる哀情を(こら)えて顔を上げると、最大限に明るく笑った。車に乗り込む後ろ姿に両手を振る。遠ざかるテールランプ。




「泣くな鬱陶しい」


美麗(メイリイ)が去りシンとした路上、ズビズビと鼻をすする(レン)に溜め息をつく(マオ)。ハンカチを汚したくないのか吉娃娃(チワワ)は袖口でグシグシ涙を拭いている。(マオ)はタバコに火を点け煙を輪にして吐き出した。


「惚れてたのかよ」

「わ…わかんないでしゅ…」


返答しつつヘナッと耳と尻尾を垂れる小型犬。(マオ)はその髪をクシャリと撫で、少し眉を下げて言った。


「イイ女だったな」

「……はい…!」




城砦の風に乗ってそよぐ龍船花(サンタンカ)の薫り。この甘ったるくて儚い匂いを、多分、これからも忘れることはないんだろうと───滲む九龍の灯りを見詰めながら(レン)は思った。

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