偽言と我が儘
倶会一処9
「お、っ…疲れ…様、です」
燈瑩が自宅玄関の扉を開けると上がハァハァと肩で息をしていた。九龍城砦の建物にはいかんせんエレベーターが無い。燈瑩の家は最上階、階段を登るのは──特に上にとっては──非常にいい運動。ごめんねといつものごとく謝る燈瑩、上もいつものごとく、全っ、然、大丈、夫、です、と全然大丈夫じゃなさそうに答えた。
「どうだった?街のほう」
「襲撃したんはその辺のチンピラぽいんやけど…指示役がちょぉわからんすね…」
テイクアウェイの珈琲を啜りつつ、界隈の噂について話し合う。
これは燈瑩の取り引きの埒外なのだが、最近潰れたルートにまつわる1件が気に掛かっていた。内容としては、管理していた少人数のグループが全員殺られただけの日常茶飯。妙なのは、浮いたルートの行き場が無くなり、手近な半グレがさしあたり貰い受けて治める方向になったこと。
変な事件だ。こういった衝突が起きるときは大抵、誰かが何かを‘奪いにくる’時である。命だったり商品だったりルートそのものだったり様々だが、今回は怨恨で殺された訳でもなくブツが盗られることもなく、ルートも手付かず。最終的な狙いが不透明。
そしてほどなくして、また別件で路上に転がった死体。それが実行犯達だったというのが上が突き止めた事実、しかし、そこから先の情報は掴みかねていた。
「間にまだいくつかクッション挟んでるね。慎重派だなぁ」
「目的はなんなんすかね」
「んー結局はルートだと思うけど。大元は…新規で治める事になった半グレの周り…の、横じゃなくて、斜めくらいの遠さに繋がってる奴ら。とかかな」
「えぇ?えらいわかりづらいねんな」
「得意なんじゃない?そういうやり方が」
死角からジワジワ忍び寄って絡め取り、標的にされた獲物は気付いた頃には絞め上げられている…まるで蛇のよう。
「あとは花街んあたりでバタついとった奴らすね。さっきん襲撃とはちゃうし、もう居なくなっとるんやけど」
「なに取り扱ってた人達?」
「フツーに女っす。風俗斡旋」
「じゃあ柴灣と、蘭桂坊だ」
「え?なんで知っとるんですか?」
上が喫驚する。燈瑩の推測通り、上も香港の柴灣及び蘭桂坊付近のチームが絡んでいるらしいとのネタをストリートから仕入れていたからだ。
「なんとなく」
「うわ、絶対嘘!なんや裏付けあって喋っててんわかっとりますからね!」
「裏付けってほどじゃないよ」
わぁわぁ言う上に燈瑩が笑う。暫し歓談したあと、上は、樹の弟ん事ですよねと控え目に口にした。今はまだ何とも、と返す燈瑩。
「でも、上に頼みごとしようかな」
「…良ぉないんすか?やっぱ」
「んーん。ただの保険」
気まずそうな表情を見せる上に燈瑩は微笑む。
動くのは何かを起こす為ではない、何も起こらないようにする為だ。何も起こらなければそれが1番いい。平和であって欲しい───せっかく会えて、傍に居られるのなら。燈瑩は仲良く夕飯を頬張る樹と宗を思い返す。
まぁ、けど俺も、差し出がましいかな。大概お節介だ…どうも要らない気を回してしまう傾向にある…そう思い1人で目尻を下げる燈瑩、それを見て上は不思議そうにポケッと首を傾げた。
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「だからさぁ、綠は気にしぃなの。そんなん義理立ててもどーしようもないっていうか」
「そっか」
「あと、僕に‘酒飲み過ぎ’ってウルサい」
「そっか」
昼下り、鶏蛋仔を食べながら裏通りを歩く兄弟。
詳しい内容は訊いていないが、宗は最近綠と揉めごとがあったらしい。プンスカしつつ、チョコ味もちょうだい!と樹の右手にあるワッフルをモシャモシャ齧る弟。兄は好きなだけ齧らせた。それが兄の役目だ。
「でもさ、優しいんだね綠」
「優しい?メリットも無いのに、優しくしたって意味ないよ」
樹の言葉に宗は首を横に振った。そんなの自分が損するだけ、とボヤき、合理的な弟はパクパクとワッフルを平らげる。不機嫌。
イライラするときは甘い物…これで宗が落ち着いてくれたら…樹は左手の抹茶味も宗へと差し出した。
「綠はわかってないよ。‘気持ち’なんて1番役に立たないってこと」
「そうかな」
「そうだよ。それで幸せになれるんだったらこの世に不幸な人いないよ」
それは正しいのだが。気持ちで物事はどうにかならない、けれど、だからといって気持ちがまったくの無駄な訳じゃ───樹が考えていると宗が顔を覗き込んできた。
「…お兄ちゃんは、いいよね」
「え?」
いいとは?良いなのか?はたまた、羨望?樹も宗を見詰め返す。瞳の奥で揺れる炎。いや、これは。
「それって───…」
と、樹が聞き返すよりわずかに早く、路地の奥に男が姿を現した。
刃物を携えてこちらに向かってくる。突然の出来事だったものの、宗を押して自分の後ろに下げた樹は男のナイフをいなしそのまま顎にクロスカウンターを決めた。倒れ込んだ男の顔を見た宗が眉根を寄せた気がしたが、視界の端にもう数人走り寄ってくるチンピラの姿が入りそちらに向き直る樹。
なんだこいつら、いきなり襲ってきて?宗と綠に出会った日に斃したヤツらの仲間か?にしては報復が遅いな、もうあれからだいぶ経っている。けど他に思い当たる節も無いし────あれこれ考えつつ、跳んだ。
一瞬、男達は樹を見失う。
フレームアウトするほどのハイ・ジャンプ。コンマ数秒後には、空中で回転した樹が男の1人の脳天に踵落としをブチ込んでいた。呻く間もなく倒れていくその背中を踏みつけると、間髪いれず隣のチンピラの側頭部に蹴りを食らわす。それから地面に降り立ち軽くしゃがむと反対側の輩の顎を蹴り上げた。次々と突っ伏す男達。
離れた位置に居た人間が拳銃を取り出したので樹は躊躇いもせず瞬時に距離を詰めた。飛び道具に頼るタイプは急に懐に入られると──燈瑩あたりはまた別なので置いておいて欲しいが──弱い。照準が外れ焦る男、その視野からまたしても樹が消えた。今度は下。足払いをかけ男を転がし顔面を思い切り蹴り飛ばすと、ギュゥと変な悲鳴がした。
これで4人…違うな、最初のナイフのヤツも入れて5人か。樹は宗を振り返った。
ら────宗は、拾ったナイフでサクッと男の首を掻き切っている所だった。
「え、宗、殺ったの」
「こいつウザいから」
「知り合い?」
「知らない」
強めな声のトーン。先ほどの態度といい、どうも、知り合いだというニュアンスのような気がしたが。
樹はとりあえず、襲撃の理由を尋ねるため自分が沈めた男達を叩き起こそうと顔を見て回った。すると宗がちょろちょろついてきて、あれよあれよというまに全員の頸動脈を掻っ捌いた。目を丸くする樹。
「宗…ちょっと、あの…早いよ…」
というより、見た目にそぐわぬ容赦の無さに驚きを隠せなかったのだが、雰囲気に気圧されそれしか言えなかった。
だってウザいんだもん、行こ、お兄ちゃん。と宗は樹の手を引いた。現場は凄惨、死体も放ったらかし。他に仲間が居るかもわからない。しかし宗は‘大丈夫だから’とズンズン歩いて行ってしまう。
───やっぱり知り合いなんじゃないのか。狙われたのは俺ではなく宗なのかも…?思案する樹の耳に宗の声が届く。
「…訊かないの?」
視線は、前へと向けたまま。樹の手も引いたまま。樹はその後ろ姿を見詰めて答えた。
「知らないんでしょ」
「嘘かもよ」
「別にいいよ」
その科白に宗が立ち止まって振り返り、自然に樹も立ち止まった。何かを言うつもりでは無かったが、宗が黙ったままでいるので樹は言葉を探した。
「えっと…別に、嘘でも…言いたくないならいいし…俺は、宗の側につくよ。守りたいほうを守りたいから」
言ってから、纏まりがない上にかなり我が儘な発言だなと自分でも思った。思ったけれど仕方がない。今さら正義なんて語れたものではないのだ。
「ふふっ!やっぱり、お兄ちゃん大好き!」
宗がクシャッと顔を崩す。無邪気な表情。その反応にホッとして、樹も慣れない笑顔を──おそらく相当ぎこちなかったが──作り頷いた。




