蘋果酒とハンギングチェア
倶会一処8
あくる日の九龍城は雨。
花街に面した中流階級寄りのビルの高層階、適当に借りた部屋のベランダで宗は眼下に広がる街を眺めていた。城塞の中にしてはかなりゆとりのある物件、この建物からの景色はそこそこ綺麗だ。狭苦しく密集した砦でも出すものを出せば景観だって手に入る。
「宗ちゃん、濡れたら風邪引くぜ」
いつの間にかやってきた綠がバルコニーに顔を出し、宗の腰掛けるハンギングチェアを揺らす。
「あれ?東サンと飲んでこなかったの?」
「アナタがお帰りならアタイも帰りますよ、龍頭。今日は樹いいの?」
「ん、明日会う」
「そっか。てか随分イイ部屋借りたね」
キョロキョロ周りを見ながら、ヒュウと口笛を鳴らす綠。九龍での予定を特に決めていなかった2人は、短期的なスパンで借家を転々としていた。本日からの仮宿に宗が選んだのはかなり展望の良いマンションの1室。滞在期間は気分次第。
風と共に吹き込んでくる雨粒を払いつつ宗は笑う。
「良く見えるからね、ここなら」
「夜景?」
「んー…そう…」
そう、と答えはしたが。‘違う’に聞こえたような気がして思案する綠。宗は手にしていた蘋果酒を呷り、てかさ、と呟いた。
「どうして内緒にしてたの?東サンと居た時の襲撃」
まだ昼間の暑さを孕んでいたはずの空気が、グッと冷え込む。
「…宗ちゃんが心配しちゃうかと思って」
綠は言葉を選んだ。下手ないいわけは宗に対して意味が無い、すぐにバレる。伝えるのは真実だけだ───全てではないにしろ。
「しないよ、綠が強いの知ってるもん」
「ありがと」
「でも全員殺さなかったんだね」
「ま、九龍来てまだ日ぃ浅いじゃない俺ら。あんまり派手な揉め事はよろしくないかと」
ふぅんと宗が生返事をする。昨日と同じ。もはやこの話題に興味を喪失、というより、興味は他の処に移ったと言ったほうが正確。
綠の真意がここではないと見抜いている。嘘ではないが1番の目的を伝えてもいない───そういうこと。綠は黙って煙草を銜えライターを擦った。
「他には僕になに隠してんの」
蘋果酒をジュース同然に喉に流す宗、投げやりな口調。隠しているつもりはないが同義ではあったので、綠はやはりいいわけはせず、手早く煙を吸い込み吐き出しながら返答。
「俺らの傘下で、香港の…蘭桂坊で風俗の女売買してたグループ。あれ解散させたわ」
「は?」
宗が綠へと身体を向ける。ハンギングチェアが軋み、ギィッと歪に鳴いた。体感は一気に氷点下。綠はなるべく落ち着いた声調になるように努めた。
「銅鑼湾の夜總會の儲けでも充分でしょ。そっちに女回した方が人身売買したりするよりお金になるって」
「なんで勝手にやったの」
「あそこのグループ、元々別の組長が作ったやつだから俺ら余所者だったし。今のシノギは気ぃ進まない感じだったからさ、あんましメンバーの意向に反した事させらんねぇべ」
「組長、もう居ないんだから関係なくない?そんなとこ配慮してたらキリ無いよ」
「宗、香港側のことは俺に‘任せる’って言ってくれてたじゃん」
───少しギリギリだな、今の台詞は。あの時宗が口にした‘任せる’はそういう意味では無かったのは明白…喧嘩腰に聞こえたかも…そう綠は思ったが、続けた。
「宗の考えが悪いとかじゃないけどさ、付いて来ないヤツも出てくるからね。みんな宗を信じて付いて来てんだから」
「だから何?有象無象なんだから使えなきゃ切り捨てたらいいんだよ」
「デカくするには人数減っちゃ駄目でしょ」
「僕が欲しいのは人数じゃないじゃん」
「そーかもだけど切ったら復讐もあるって」
「じゃあ殺したらいい。それで、九龍で新品調達したらいい。代わりなんて掃いて捨てるほど居るんだし」
言って、宗は綠を見詰める。醸し出す絶対零度な雰囲気と同様宗の瞳は暗い。が、奥では高い温度で炎が揺れていた。
綠は目を逸らすことなくその焔が鎮まるのを待った。鎮まる、という表現は間違いか。姿を隠すのを待った。
1度火が点いたら消える事は無い、宗はそういう男だ。自分が‘否’と断ずれば何事であろうと何人であろうと即排除する。故にここまでのし上がった。恐ろしい程の判断の早さ、冷徹さ。目的の為なら手段を選ばない。
しかし───それが危うさでもあった。
沈黙が場を支配する。雨音がやけに煩い。綠の煙草が燃え尽きかけた頃、宗は、フゥと短く息を吐き唇を尖らせた。普段と変わらない節回し。
「今度からはさ、相談して?先に」
「ん。ゴメンな」
「代わりに皇家の残党って人達追っかけて」
「りょ。香港ん奴らに調べさせとく」
綠は軽く眉を下げ笑ってみせる。
───今度からはさ、相談して?先に。
これは宗のポーズだ。おそらくそんなこと全く思っておらず、相談しようがしまいが基本的に宗の中で最初から答えは決まっている。覆りはしない。
それでも綠は頷く。そして。
「あと、東と燈瑩のルートと【宵城】の女は盗れねぇから。狙うなよ」
蛇足は承知で、付け足した。宗がそうだねと口角を上げる。これもポーズ…けれど、綠ももう一度、笑顔を返した。




