煩悩と思い出話・前
倶会一処5
「へぇ、じゃその美人サンが彼女って事?」
「彼女…かどうかは、わかんないけど…」
夜半、花街。
フラフラと立ち寄ったバー──無論ちょっとピンク──でグラスを傾ける綠と東。
それなりに如何わしい店で飲み歩く割にあまり女性とは絡もうとしない東を不思議に思い理由を尋ねる綠へ、東は藍漣の件を掻い摘んで話した。…ものの。
空港で別れて以来、東が上海へ行くわけでもなければ藍漣が香港へ来るわけでもない。連絡だってろくすっぽ取らないのだ、堂々と恋人と宣言するのは気が引けた。
事情を了解しニヤニヤする綠。
「それで女関係は妙に真面目んなったんだ」
「なった?」
「他の店でもキャストの娘たちに言われてたでしょ、‘最近’遊んでくれないって」
「変なとこばっかしっかり聞いてるね!?」
ギャンと鳴く東へ、綠は良いことじゃんとグラスを合わせ乾杯。
「でも彼女じゃないの?」
「どうだろ…確認したことないし…そうだと俺は嬉しいけど、好きだから」
「フヮーオ♡」
「やめなさいよその合いの手!!」
恥ずかしい!と叫んで東が両手で顔を覆う。ちょうどドリンクを運んできたキャストが東の仕草に首を傾げ、綠は気にしないでとその谷間にそこそこの額のチップを挟んだ。大喜びで綠の頬にキスをし去っていく女性、指の隙間から覗く東。
「綠、気前がいいね」
「ん?うん…なるべくケチりたくないのよ、こういうの。だってさぁ…」
東の言葉に、綠は途端にシリアスな表情。従業員達へ向ける眼差しは真剣そのもの。
あら?何か理由があるのかしら?サービスの良い店には相応の価格を支払うとか、女の子達も生活の為に頑張ってるからとか、そういったものだろうか?何だかんだで侠気がある感じするもんな…。考える東へキリッとした顔のまま綠が放つ。
「アタイは…胸が好きだから…」
ただの煩悩の化身だった。
「潔いな」
「多謝」
東のツッコミに礼を述べる綠はことさら涼しげ。黙っていれば先ず先ずイイ男なのに…けど喋ってても関係ないか、いつも女の子引っ掛けてるし…そんな事を思いつつ酒を啜る東。周りの座席を見渡す。
これは全くの別件だが、数十分前から感じていた小変。
───視線だ。キャストではなく男性客の物。客、なのか?どうもキナくさい。水商売の店で可愛いお姉ちゃんより飲みに来ている男に注目する理由など限られてくる、裏社会の住人であれば特に。
「綠、最近トラブった?」
東が小声で問えば綠は片眉を上げる。綠も勘づいていたらしい。
「俺…じゃないね。いや、俺か。俺だな」
曖昧な返答。どうする?アタクシ弱いけど?と、への字口をする東。知ってるよと笑う綠はスタッフへ会計を頼んで多めに札束を置き、‘出ようぜ’と東を促した。
路地を足早に歩く。追ってきているのはわかっていたので、2人は人気のないこぢんまりとした空き地──といっても実際ただのどんつき──へ向かった。違法建築群で塞がれた頭上から無数に垂れ下がるケーブルと大量に滴る水滴。
「どこもかしこもこんなだな九龍」
「中流とか富裕層地域に行けばマシだけど…しかしすごい降ってくるわね、パーカー汚れちゃう…」
「洗えばいいじゃない」
「ジメジメしてるから乾かすのが大変なの!屋上まで干しに行くの遠いし!」
なんやかんや無駄話をしていると、今しがた通った道から男達が数人追い付いてきた。
綠が‘おっす!ご苦労サン!’などとヘラヘラ挑発的に挨拶、初手から見事に神経逆撫で。やだ綠…自信満々なの…?東は壁際に寄って地味に身を隠した。
男の1人が口を開く。
「香港島では世話になったな」
「世話した覚えはねーけど?でもお前らの顔に見覚えはあんね。その節はどーも」
答えつつ綠は煙草を取り出し、口元に運び火を点けひとくち吸って、’何しに来たの?’と訊いた。のんびり。白々しい質問をするなと男が激昂。香港側でのトラブルから九龍まで後を付けてきたということか。
「もー終わった話でしょ。恨みつらみ、ヤメたほうがいいぜ。大人しく帰ってもらってもいいかねぇ」
その方が身の為よ、と言い放つ綠にチンピラが殴りかかった。一貫して余裕を失わない態度が気に食わなかったのだろう。綠は唇の煙草に指を添え、動くこともなくその場に立っていた…ように見えた。男の姿と綠の姿が重なる。
気付いた時には殴りかかったチンピラは崩れ落ち突っ伏していた。煙草に添えられた綠の手の位置がわずかにズレている、恐らくカウンターで1発顎に入れたのだろう。早業。
後ろの男が拳銃を構えたのを認め、綠は足を振りその顔面にサンダルを飛ばす。視界を塞がれた男が慌ててサンダルを叩き落とすも、眼前には既に距離を詰めていた綠の顔。襟を掴まれ鼻っ柱に頭突きを喰らわされた男は思わずのけぞる。
綠は男の腕を取りピストルを持ち上げると適当に数発撃った。周りを囲んでいた連中に当たり2人ほど倒れ込む。続けて腕を捻り、鼻血を吹く男の下顎に銃口を向けまた1発。頭頂部から弾が抜け血飛沫と脳味噌が散乱。死体を雑に蹴倒し、同時に横から拳を振りかぶる男を半身になって躱す。前に踏み込んで右ストレート、勢いを殺さず軽く回転し隣の輩に右のミドルキック、どちらも一撃で地面に沈めた。
強い。
残った数人が踵を返し路地の反対側へと逃げていく。遠ざかる背中へ向けて‘もう来んなよ’と声を飛ばす綠。銃弾が当たって呻きながら転がる男達とパンチを喰らって伸びている男達をチラッと見やり、それから死体を見て、申し訳なさそうに肩を竦める。サンダルを拾って履き直し東に合図。
「行きましょ。ズラかったもん勝ち♪」
どのみち勝ちなのだが。
現場から離れる道中、綠が自分のシャツを引っ張り‘これお前ん家で洗って’とボヤく。派手めな返り血。東は‘乾燥にはお時間頂きますよ、お客様’と頷いた。




