橡皮鴨と珍珠奶茶・前
暑い。
茹だるような暑さとはまさにこのこと。気温は連日30℃を軽く超え、香港名物の湿度が加わりたっぷりと水分を含んだ空気は重くベタベタと身体中に纏わり付く。街はさながら巨大なバスタブ。
そんな巨大なバスタブに、2匹の、これまた巨大なアヒルが浮かんだ。
「……死ぬ……」
甚平の胸元をパタパタさせながら呟く猫。
快晴の香港、金鐘。維多利亞港で開催されるイベントに遊びに来た───訳ではない。【宵城】用の菓子を中環まで買いに出た。少なくとも、猫の用事はそれだけだった。
「うわっもう見えてる、アヒルの頭!!ねぇ猫早く、近くまで行こーよ!!」
「行かねぇよ、溶ける…樹連れてけ…」
ハシャぐ大地へ猫が力無く手を振ると、大地はチェッと頬を膨らませ樹の腕を引いて埠頭へと駆け出す。
金鐘の駅を降り、添馬公園から続く中西区海濱プロムナード。その先の維多利亞港に、2匹の巨大アヒルが浮かべられると話題になった。プカプカ運ばれてくるアヒル達をテレビで目撃した大地は、絶対に見たいの一点張り。それを知らなかった猫が‘中環──金鐘の隣駅──に新作の菓子を買いに行く’と口を滑らせた。
そしてこのザマである。
その後猫は‘タピオカでも奢るから’と何とか樹を巻き込むことに成功、するとオマケで荷物持ちも付いてきた。まぁ上々。アヒルへ走っていく子供達を横目に、猫と東は木陰のベンチに腰を下ろす。今しがた買ったファストフードの袋をガサゴソやる東。何か要るかと訊かれた猫は、アイスコーヒーだけ受け取った。
「デカいわね、アヒル」
「1匹しか居なくね?」
「1匹しぼんだらしいよ」
「テーマ変わっちまうじゃねぇか」
実はこのアヒル、維多利亞港に登場するのは今回で2度目。前回は単身尖沙咀側の海に出現し大きさも16.5メートルだったのに対して、今回は仲間を引き連れ18メートルにパワーアップし帰還した。
2匹には、‘囍’と‘朋’という言葉を通じて‘幸福’や‘友’といった意味合いがテーマにある。良いものはペアでやってくるという中国の諺なのだが…どうやら1匹は暑さにやられてしまい休憩中のようだ。ぺたんこになっている相棒の隣で、片割れがファンサービスを頑張っている様子が遠くからでも目に入る。
銅鑼湾、紅磡、旺角など香港各地の地下鉄駅もアヒルのアートがジャック。トラムのラッピングもアヒルに彩られ、ラバーダックだらけの街は大盛り上がり。
なんにせよ、お祭り騒ぎは活気があって良い事だな…瞼を細めた猫は海を眺めてアイスコーヒーを啜る。なぜか足元に集まるスズメ。横を見ると、東がハンバーガーを齧りつつバンズの欠片を鳥にやっている。よくわからないデカめの鳥も群がりだした、波間に漂うアヒルほどではもちろん無いが。
パンと共に疑問を投げる東。
「猫、どこのお菓子買うの?」
「IFCに入ってる店の…曲奇…」
国際金融ビルか。というかこの城主、炎天下のせいでもはや喋るのもダルそう。東が視線を向けたそばから猫はベンチに転がり丸くなった。お昼寝ですかネコちゃん?と揶揄えば光速で下駄が飛んできて脇腹に突き刺さり、東はハンバーガーを口から吹きかけた。
「てか、タピオカ屋さぁ。中環じゃなくて彌敦道沿いに何件か行きたいとこあるって樹言ってたけど」
「マジか…遠いな…」
「俺が連れてってもいいわよ。猫帰る?」
「行くよ、俺が言い出した…ん…だし…」
声が途切れた。ネコはもう夢の中。昼頃まで徹夜で仕事してたらしいもんな、週末は花街忙しいから…そう思い、チラリと寝顔を盗み見る東。閻魔も眠っていればそれなりにあどけない。金髪が風に揺れた。
そうこうしているうちに、パン屑を啄む鳥達は全ての餌を平らげたようでもっと食べ物を寄越せとピィピィと騒ぎはじめる。東は再びバンズをちぎりつつ、膝に乗ってきた1羽へ向け、唇の前に人差し指を立てて笑った。




