晏晝と肉切り包丁・前
焦熬投石4
「蝦雲呑麺なら光明軒が旨いだろ」
「樹もそう言ってたわね」
昼下り。荷物を提げて、ダラダラと路地裏を進む匠と東。
【東風】へ煙草を買いに来た匠は、食肆へ向かおうとする東と店の入り口で鉢合わせ。蓮が包丁が折れたのなんだの騒いでいるので新品の調達がてら買い出しを手伝ってやるとの東の話に、どうせどこかで晏晝を食べようとしていた匠もついて行くことに。
もろもろ食材を入手し歩く裏通り。ガサッと買い物袋を抱え直す匠が首を傾げる。
「つうか包丁折れたって何だよ」
「柄が取れたんじゃない?めちゃめちゃ安い金物屋で買ってたから。ちょうど光明軒の裏くらいにあるお店」
「あそこ歯医者じゃなかったっけ」
「歯医者の横の小っさい階段登ると日用品屋もあんのよ」
東の説明に匠が詳しいねと関心すると、違法薬師はあくどい表情。
「金物も安いんだけど。もっと上の階行くと粉物も安いの」
「うわ出た。お巡りさぁん」
「なんで!匠も売ってるでしょ!」
「俺は本職じゃねぇもん。最近プッシャーのバイトもそんなにやってねぇし」
「あら、どして?」
「んー…DJだけでも食ってけるし…」
俺は金、別に無くても良いから。言って匠は視線を落とす。
先日香港の中環にオープンした日本式ラーメン屋、その料金は1杯で市内の最低時給の倍近く。賃金は上がらないのに物価は高騰していくばかり…この国でも貧困に喘いでいる人間は数え切れない。
けれど、有る所には財は有り、高級住宅街の部屋は目玉が落ちそうな価格で売れて摩天楼のネオンは燦然と灯る。維多利亞港から眺める百万ドルの夜景─────反して、真下に広がる壁の剥がれたマンション群。ほんの数畳のスペースに住まう人々は四六時中労働をし幾許か日銭を稼いで生きる。格差社会。九龍外だってこの状況、城塞内での貧富の差は余計に顕著だ。
そして、治外法権であるが故、持たざる者の稼ぎ方は非常にバリエーション豊か。スラムの治安は悪化の一途を辿る。
そんな中。
「アイツら頑張ってるよな、若ぇのに」
匠がボソッと呟く。
アイツらとは蓮や寧を指すが…しかしそう言う匠とて大差ない年齢だし、幼い時分からの苦労は絶えなかったはず。身寄りのない子供などそれなりの何かをしなければこの街で生きるのは難しい。
東はその横顔を見詰めた。
「匠だって色々あったでしょ」
「あったけど、蓮とか寧は真っ当に生きてんじゃん。九龍でソレってスゲェよな」
買い物袋を持った手を頭の後ろで組んで、空を見上げる匠。違法建築に囲まれた四角くて小さい空は本日も薄曇り。
この無法地帯では悪事を働いて暮らしていない人間のほうが少ない。真っ当に生きる事は──本来は普通であるが──凄い事なのだ。
そう存れる為の手助けを猫や燈瑩、樹から受けたにしろ…皆の瞳には蓮に大地、寧の姿はどうしても健気で眩しく映る。その光を霞ませたくないと仲間の誰もが思っていて、そして匠もまた例に漏れなかった。
そうね、と同意する東に匠はニッと笑い、ところでさぁと軽い調子で質問。
「お前ら、喧嘩売ってきた奴の扱いってどうしてんの」
「そりゃ基本返り討ちよ。俺は出来ないけ」
ど、と東が発するのと匠が袋からビール瓶を取り出して振り返り様に投げ付けるのはほぼ同時だった。豪速球さながら飛んでいった酒瓶は10メートルほど後ろに居た男の顔面へ見事にヒット、引っくり返った男の手には、拳銃。
東は咄嗟に道の脇に立てかけられていたハシゴを掴んで引き倒す。ついでにバケツやら鉄パイプやらも一緒に落ちてきて粗雑なバリケードの様相を呈した矢先、いくつか銃声が響き早速脚立へと鉛玉が命中。2人は路地の奥まで走り、突き当りのT字路で右側と左側へ分かれるとそれぞれ壁に背を預けた。
「ちょっと!!唐突過ぎでしょ、闘るなら先に教えてくれない!?」
「悠長なこと言うなよ、撃たれちゃうだろ。つうか撃たれてるし」
騒ぐ東に‘返り討ちって言ったじゃん’と匠。言いはしたが、俺は出来ないとも付け加えたはずだ…東は口をへの字にしてチラリと来た道を覗く。
引っくり返っている奴を除外して、2対2。
「匠、あと1.5人イケる?」
「は?」
喧嘩においては自分が0.5人にしかならないことを承知している東が問うと、匠から短い抗議が返ってきた。顔には‘何言ってんだお前’と書いてある。ごもっとも。




