路傍と外出日和
日常茶飯2
「大地、俺仕事行くで。朝ご飯テーブル乗っとるから食べぇや」
上の声に寝ぼけまなこで相槌を打ち、大地はゴロゴロと布団のうえを転がった。
時計を見ると針は2本とも7のあたり、まだ登校時刻までは大分ある。とりあえず起き上がって上を見送り、ノロノロ身支度をしてテレビをつけた。子供向け番組、ニュース番組、面白いものないな───あっ陽さんの鴛鴦茶のCMやってる。
チャンネルを変える手を止めて画面をジッと凝視。ちょっと不思議な感じ、本当に上の彼女さんなのかな?上のどこを好きになってくれたんだろう…まぁ上イイ奴だけど…食卓に用意された三文治を食べつつ首を傾げる大地。
朝食を済ませて、お茶を淹れ、一息ついたら良い時間。鞄を提げ家を出ると、夜中に空を覆った雨雲はすっかりどこかへ消え去り路地に太陽光が射し込んでいた。広場へ抜ければ頭上にはうっすら虹が架かった晴天。
なんかラッキー、大地はクスリと笑う。
跳房子の要領で泥濘を避けつつ学校へ。
学校と言っても九龍城砦に義務教育の概念は存在せず、有志や教会がやっている寺子屋がチラホラあるのみ。本格的な教育機関へ通おうとするなら香港まで行くのが必然だ。
でも、‘何を勉強したい?’って訊かれると、難しいな。
自分に出来ること…さしあたり、仲介屋もどきはやらせてもらっているけど。
なんにしろ、みんなの役に立ちたいな。早くもどきを取り払いたい。香港で勉強した方が役に立てるのかな。香港あんまり行ったことないんだよな、樹に話聞いてみようかなぁ。考えつつ水溜まりを飛び越す大地、目的地はもう目と鼻の先だ。
寺子屋に着いたらいつもの席に腰を下ろす。1時間、2時間、お昼を挟んでまた1時間。
授業はけっこう楽しい。知らないことを沢山学べる、眠くなるような話も偶にはあるが、概ねワクワクするものばかり。知識が増えれば世の中の見方も変わるのだ───などとちょっと大袈裟な事を大地が思っていると、ポケットの携帯が震えた。
樹からメッセージ、帰りに順光楼の近くの班戟屋に行こうという誘いに即オーケーの絵文字を返す。スイーツ大好きな年少組。
甘いものといえば、ここのところ欠席が続くクラスメイト、両親が駄菓子屋さんを始めたから手伝いで忙しいって言ってたな。空いている椅子と机を眺める大地。
学校へ通わず家業を手伝う子供も多く存在し──ただし中流階級以上に限る、それ以下では家族など居ない子供が圧倒的多数──城塞内で主流の仕事といえば食品製造。麺作りや豚肉の塩漬け作り、叉焼、魚のすり身餃子にイカ団子。例のクラスメイトの家は製飴業。砂糖を溶かして飴にして、伸ばして切って、丸めてコロン。
前に様々なお菓子に使われていたピンク色の万能着色剤に水銀が混ざってたとかで、上が慌てて台所の棚を全部引っくり返したことがあった。隠してたガムが1つ残らず捨てられちゃったっけ。他にも政府の基準から外れた成分がなんだとかかんだとか。食べちゃえばわかんないけど、駄目なんだろうな、身体に悪くて。大地がぼんやり考えていると教師が終業を告げる。あれ?もうそんな時間か。
同級生に手を振り建物から出ると、既に樹が迎えに来ていた。天気もいいし班戟買ったら散歩しない?との樹の言に頷く大地。道中様々なお菓子の話をし、猫から貰った曲奇が美味しかったから香港に新作探しに行きたい、と発する樹に大地は大賛成。早速今週末2人で遊びに行く予定を立てた。ついでに後で【宵城】にその曲奇取りに行こう、まだ余ってたしとの樹の提案にも大地は首をブンブン縦に振る。
「俺、香港ほとんど知らないから超楽しみ!樹は住んでたんでしょ?」
「住んでたってほどでもないけど。あんまり家から出なかったよ」
「学校とか行ってなかったの?」
「全然。ていうか、学校通ったことあるの大地だけじゃない?」
その樹の発言に大地は面食らう。
確かに上は行ってなかったな。けど東はすっごい薬に詳しいし、猫も大きなお店を経営してるし、哥は滅茶苦茶なんでも知ってるし。てっきり全員ちゃんと…ん?そうなると九龍で生きていくのには関係ないのか、学校とかって?じゃあどうしてみんな俺に寺子屋通いを勧めてくるんだろう。
考え込む大地に、大地の世界が広がって欲しいからだよ、と樹。
「いっぱいある中から大地がやりたいこと見付けてくれたらいいなって」
道が狭まらないように。選択肢は多いほうがいい。大地のやりたい事はもはや‘仲介屋’から動かないのだが、それにだって、思いがけない知識が思いがけない形で力になるかも。何だって勉強しておいて損はない。
上が小言をいうのはそのせいだ。口煩いと感じる時もあれど、大地を大切に想うが故。わかってはいる、しかしそれでも、宿題をやったやらないで今夜も揉めることは大地には予想がついていた。相容れない保護者とティーンエイジャー。
順光楼で何種類もの班戟を買ったのち、近くの丘までピクニック。上が要人警護のバイトをした際に初デートに選んだ丘らしい…いやデートじゃなかったっけ…?大地が樹に問えば樹は‘デートだよ’と断言。
上って陽さんとの事あんまり教えてくれないんだよね、俺色々聞きたいのに。と大地はブーたれるも、あの夜この場所が血の海に変貌したとは多少言いづらい樹は黙って唇を一文字に結ぶ。
小高い山頂に着くと、燦めく夕日が九龍を包み込んでいた。眼下に広がる違法建築はデコボコと不格好だが、オレンジの光を浴びて輝く姿は幻想的でもある。ここが東洋一の犯罪都市などとは到底思えない景色。
「綺麗だね」
「うん」
樹の言葉に大地は頷く。
ひとつひとつの建物や窓の中に誰かが暮らしている。これから知り合う人もいるだろうし、一生巡り合わない人もいるだろう。すれ違うだけの人も、すれ違いすらしない人も。それぞれ人生があって、その全てが九龍城を形造っている。
一度入ったら二度と出て来られない魔窟などと揶揄される──そりゃ確かに事件は多発し死体ばかり転がるが──けど、大地を取り巻く人間は温かい。運が良かっただけかも知れない…だとしても。
黄金色の城塞。
俺、やっぱこの街、好きだな。
みんなと居る九龍城が好きだ。そう思い、班戟を口に運びつつ大地は目を細める。
と、トッピングのマシュマロがポトッと足元に落ちた。それを追った視線の先で、路傍に黄色い花が咲いているのを見付ける。葉っぱが左右から2枚でクルンと茎を覆っており、まるで金髪の小人が着物を羽織っているかのようだ。大地はしゃがんで指を伸ばす。何かこれ───…
「猫みたい」
「ね!思った!」
隣に座り込む樹の台詞に同意して笑う大地。猫の部屋に今ちょうど花瓶があるよと樹が言うので、大地は花を猫へのお土産にしようと、そっと手折って班戟の紙で包んだ。
日が落ちきる前に2人は高台を下って街を抜ける。【宵城】に到着すると、事前に樹から連絡を受けていた猫が曲奇缶を用意して待っていてくれた。ニコニコと満面の笑みで花を差し出す大地に猫は何とも言えない顔をしたが、黙って花瓶──もとい紹興酒のミニボトル──を顎で示す。大地はそこに水を汲み花をさした。樹が若干羨ましそうな表情、花瓶が欲しくなったのか。
それから樹に送ってもらった大地が自宅まで帰り着くと、上がキッチンで夕飯の準備をしていた。猫に貰った曲奇の缶を開いて見せる大地だが、上は良かったやんと言ったものの手を付けようとしない。
最近上はダイエットをしている。ピンときた大地は人差し指を顔の前に立てた。
「わかった。デートの予定があるんでしよ、陽さんと」
「えっ!?」
上の声がわかりやすく裏返る。
今日、ピクニックへ行ってその話題に触れたから思っただけなのだが…見事に的中。アタフタする上を横目に大地がテレビの電源を入れると、タイミングよく陽が映った。
「あれ?新しいCMだこれ」
呟く大地に上も画面を覗き込む。化粧品のコマーシャル、赤いアイシャドウに赤い口紅がよく似合っており、色っぽくて素敵だ。
大地は隣の上をチラリと見やる。固まってる固まってる。面白い。
「ランニングとかするなら付き合うよ?」
お腹をプニッとつまみながら大地が言うと上は正気を取り戻し、いや、うん、まぁ、せやなと唇をモゴモゴ動かす。
スクリーンの向こうで嫣然と微笑む陽。その傍らにポチャッと立つ上を想像して、大地はまた、シシッと笑った。
混沌の街にそよぐ夜風。平和に、緩やかに、今日も九龍の夜はふけていく。




