閻魔と1番・前
千錯万綜9
椅子に腰掛ける藍漣が、プァ、と煙を吐き出しながら東を見下ろす。
「で、襲われちゃったわけだ」
「‘猫に’ってこと?」
「違ーよ。そりゃ東だけだろ」
呆れる藍漣、地べたに仰向けのまま返事をする東。樹は月餅をかじりながら大人しく西多士を待っている。
【東風】へ帰り着くやいなや殺気を飛ばしてくる猫に、東は先程の出来事を伝えて弁明を図るも全く聞き入れられず。四の五の言っている間に鉄拳を喰らわされ、あれよあれよと床に転がされる通常運転。
東の財布の中身を抜き、ツケの残金を告げ、悠々と城へ帰っていく閻魔の背中を午後の日射しが眩しく照らす。
「気を付けろって言った矢先じゃんか」
「閻魔を招き入れたのは藍漣でしょう…」
「猫の話じゃねーから。しかも借金は自業自得だろ」
言いながら立ち上がった藍漣は、東の横に座り込み眼鏡のレンズの下を指差す。
「ほっぺ擦れてるぞ」
「え?ほんと?」
「ほら」
「痛い痛い痛い!!ほんとだね!!」
傷口をキュッと指でこすられ東が喚く。ケラケラと愉しそうに笑い声を上げる藍漣は月餅を食べ切ってしまった樹と目が合い、東のフードの紐を引っ張った。
「おい、樹が西多士待ってるぜ。作るぞ東いつまで寝てんだ」
「え?藍漣も手伝ってくれんの?」
「な訳ないだろ見てるだけだよ」
「ですよね」
台所へ向かう2人へ樹が手を振る。冷蔵庫を覗く東に、茶ぐらい淹れてやるよと藍漣はヤカンを──電気ケトルは先日の飲み会の際に誰かが空焚きしお亡くなりになったので──火にかけた。
東が食材を手に取りつつ口を開く。
「つうか、藍漣いつもフラフラ飲み歩いてて大丈夫なわけ」
「なにが」
「1人は危ないんじゃない?女なんだから」
思いがけない言葉に、意味を即座には理解出来なかった藍漣がワンテンポ遅れて破顔し東の背中を叩いた。
「へーきだよ!ウチ、お前より強いし」
「それを言われると立場が無いね」
「可愛いな?心配してくれるなんて」
「別に普通でしょ」
みんなするよと答える東に、あんまされた事ねーよ、まずほとんど女だってバレないしなと藍漣。
「最初、東だって間違えたじゃん」
「間違えたけど…でも…」
東は藍漣の顔を見詰めた。
「今は知ってるし。藍漣、美人だしね」
せめて街の混乱が落ち着くまでは自重しなさいよと続け、調理台に戻るとスイーツ作りに取り掛かる東。レシピや水果を眺めてブツブツと独り言、樹の好みに合わせて考えているようだ。藍漣はクスリと口角を上げる。
「ほんと優しいな。東が1番優しいだろ」
「え?んなことないでしょ」
というか1番ってどの中でだろう?いつものメンツの事だとしたら全員藍漣には優しいはずだ…俺には違うけど…などと東が思っていると、甲高い音をたててヤカンが鳴いた。東がコンロの火を止めようとツマミに触れると、同じく止めようとしたらしい藍漣と指がぶつかる。藍漣は東の手の上からツマミを掴むとカチッと回した。
火が止まりシンとした部屋の中、やけに穏やかな藍漣の声が空気を震わす。
「お前が1番だよ。ウチはそう思う」
唇を綻ばせ、東の目を覗き込む藍漣。
「…ありがとね」
礼を返した自分の声も想像以上に穏やかで東は少し驚き、藍漣はまた愉しそうにケラケラ笑う。
重ねっぱなしの掌が、ほんのわずか、熱を帯びた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
あくる日。
「お…重いぃ…」
市場近くの薄暗い路地で、ヨタヨタ歩くのは大きな買い物袋を両手で抱える蓮。中身は、ほぼ酒瓶だ。
連日【東風】のメンバーが食べに来てくれるおかげで食肆は大助かりだが、あの人たち──というより猫──が店を訪れるとやたらめったら酒が減る。治安の悪化に伴い客足は確実に少なくなっている筈なのに、普段通りの仕入れじゃ到底追い付かない。
今夜もきっと師範は呑みにくる、旨い酒を用意しておいてやらねば。肴は何にしようか…師範あんまり食べないんだけど…メニューを頭に浮かべながら蓮は裏道を進む。
途中建物の階段を上がり、また下がり、その先の小さな広場を抜けるのが最短ルート。と、広場にあまり友好的ではなさそうな男達がたむろしていた。あら、通るのやめた方がいいかしら…蓮が遠回りしようかと振り返れば、後ろからも似た様な風体のチンピラが。前後を交互に見ていた蓮だが───はたと気が付く。これは、もしかしなくても挟み撃ちということ?狙いは僕?
「ええと、どちらさまでしょうか」
仕方なく広場に出た蓮が恐る恐る問い掛けると、男達は若干懐かしい名前を口にした。
「お前、12Kのメンバーだな」




