現代心理学部教授
現代心理学部研究室を訪ねると、アポ相手の尼崎教授はせかせかと立ち上がり、ふたりに応接に座るように手で合図した。周囲の机はどれも、パソコン、書物、雑誌、新聞、雑多なものに埋まり、かなり煩雑だ。
媛はなぜか自分のスマホを教授に見せ、録音してもいいかと尋ねた。香川は録音するほどの供述が取れるとも思ってないが、尼崎教授は嫌々ながらに承諾した。
ごま塩頭の壮年で、男性にしてはかん高い声で早口に喋るところが神経質に感じられる。
「三原君のご不幸のことで来たんだろうけど、お話することはありませんから」
と、先手を打ってきた。
香川が苦笑しながら、「三原さんのことは大学病院の主治医の先生にいろいろ伺ってきたところです」と言うと、ホッとした様子を見せる。
「では彼女の病状や特性なんかを僕が説明する必要はありませんね?」
「先生がどのような研究をされていたのかは実は興味がありますが?」
「え?」
香川はこの手のタイプの男が嫌いで、公私混同ではあるが、実は少々この細身の男をからかってやろうと思っている。
確認事項としては、月に一度どんなテストをさせていたのか、それは三原亜里沙の負担になっていなかったのかどうか。
そして、母親が口にした肩身の狭い思い、決して裕福ではない家計。馬の目の前にぶら下げられたニンジンのような「学費免除」という取引条件をどう考えていたのか、そして笠岡美登利のことだ。
「先生と三原さんの関係は良好でしたか?」
教授はおろっとして「関係ってそんな……」と呟いた。
「月に一度面談されていたと聞いています。何らかのテストも行っていたと。それで間違いありませんか?」
香川が言い換えると尼崎教授は手で額を拭う仕草をした。
「は、はい」
「テストはどんなものですか?」
「ロシア語やギリシア語のように、スタンダードなアルファベットではない文字にも色がつくのかどうか、見てもらっていました」
動揺させた後は教授から居丈高さが抜けた。
「特にロシア語は興味深くて、最初は形状が似ているアルファベットと同じ色が見えていたのに、発音を教えると色彩変化が現れたり……」
そこまで言ってから、「こんなことが三原君の死に関係するとは思えませんが?」と気づいたようだった。
香川は今のうちにと質問を畳みかけた。
「テスト中に発作を起こすようなことはありませんでしたか?」
「あるわけないじゃないですか、こちらは時間制限、文字数制限をされて小出しにデータ収集するしかなかったんですから」
やはり自分の研究のほうが大事な残念な研究者だ。
「三原さんのほうからテストをしたくないとか、特待生辞退の話は出ていませんね?」
「それこそ失礼だ、小学校入学からこちらがどれ程の援助をしているか、数字出しましょうか?」
「いえ、それには及びません。それで、笠岡美登利はなぜこちらに面談に来ていたんです?」
「は? 笠岡? それこそ今回の騒動に何の関係もない……」
静かだった媛が突然口を挟んだ。
「騒動って何の騒動になってるんですか?」
「い、いや、こちらの話ですから」
尼崎教授は、今度はポケットからハンカチを出して顔を拭いた。
「三原亜里沙は付属高校の美術室で死んでいましたが、死の直前か直後、死体に触れた者がいるのです。それで私たちも、ことの事件性の有無を問われていましてね?」
被害者に触れたのは十中八九彼氏の福山鞆旗なのだが面白そうなので、香川は教授を揺さぶってみることにした。
「わ、私があっちの美術室に出向いて触れたとでも仰りたいのですか?!」
「いえいえ、そうとは言っていません。ただ騒動という物騒な単語が出てきたので」
香川は意識してにっこりとしてみた。
「そ、騒動と申し上げたのは、金銭問題というか、こちらの論文の問題というか、彼女がいないともうデータが揃わない。今までの援助は水の泡で私の論文はとん挫してしまう。成果を出せていない私が学内で微妙な立場になってしまった、という話です」
「そうですか、それは大変ですね。でもまだ笠岡美登利がいるでしょう?」
「いや、あの子はもう特別ではないのです」
「共感覚者ではないと?」
「端から違います」
「でも成績優秀な特待生で、先生が面談していると……」
「普通に成績優秀なだけ、でした。面談もこの一学期で終了予定です」
尼崎教授の顔は苦虫を嚙み潰したようになっている。
「彼女は何の特殊技能があったのですか?」
「そんなもの、なかったんですよ。だが、医者の守秘義務ではないが、これは個人のデリケートな情報です。いくら警察でも事件に関係ない生徒のことまで聞いて良いとは思えませんね」
尼崎教授は少し調子を取り戻したらしい。
「慧眼です。一本取られましたね。尼崎教授、貴重な時間をありがとうございました」