三原亜里沙の事情
媛の運転で6月の日差しの中を署に戻る途中、香川のスマホに被害者の死因が届いた。呼吸困難、心停止だそうだ。
事故死、自然死の可能性が強まる。
福山鞆旗は「容疑者の逮捕」ではなく、「重要参考人の任意同行」とせざるを得ない。特に未成年者の処遇には警察も慎重になる。
取り調べではなく事情聴取の続き、福山の父親が金に糸目を付けず手配した弁護士の到着を待っての長丁場となりそうだ。
福山本人が家に帰りたいと言えばそれも引き止められない。
署に戻り、監察医からのレポートに目を通す。
「毒殺じゃないんだな……呼吸困難ってパニック障害起こしたとかか?」
香川が独り言ちると媛が眉をひそめた。
「6時間目、ふたりっきりの美術室、若い恋人たち。思い余っての暴行? 合意の上での過失致死? 若気の至りの事故では済まされないかもしれない。殺人ではなくても無理強いしたとか福山の行動に犯罪性があるかも。福山が黙秘したら限りなくクロに近くなります」
「そうだな……」
――三原亜里沙の首に付いていた福山の髪。被害者が横たわっている状態で付着し、首から落ちていないのだからガイシャはその後立ち上がってない……。
福山がいるはずの取調室のほうをふたりで見やったが、弁護士もまだ来ていない。口を割らせるよりはまず聞き込みだと顔を見合わせ、コンビはまた署を飛び出した。
三原亜里沙の自宅は、福山家とは何もかも対照的だった。マンションと呼ぶよりはアパートというほうが似合う疲れた集合住宅の、狭い茶の間に香川と媛は通された。
シングルマザー家庭で、その母親は娘の死に見る影無く悲嘆にくれている。
「あ、亜里沙はいろいろハンデはあっても、人様に迷惑かけるような娘じゃない、やっと、やっと絵の才能が認められて、お情けであの学校にお世話になっていると思わなくて済んでホッとして、あの娘らしく生きていいんだって、やっと、やっと……」
涙はもう涸れてしまったのだろう、痛みのような悲しみを抱えて呟く。
「三原さん、亜里沙さんのハンデとは具体的に、どういうことでしょうか? 心臓が弱いとかあったのですか?」
媛が柔らかく問いかけている。
「あの娘は……発作持ちで……、よく倒れるのです……」
「パニック発作とかですか? 前にもあったのですか?」
「いえ、ひきつけ……、てんかんなんです……ずうっと薬を飲んでいて、ここ最近は発作起こしてなかったんですが……」
媛はあまり知識がないのか反応に窮したのを見て取って、香川が代わりに尋ねた。
「てんかん発作は人それぞれ、引きがねとなる刺激がありますよね? 亜里沙さんの場合は?」
「色といいますか、光過敏と言ってもいいんでしょうか……、テレビやゲームも時間制限しておりまして……、青いサングラスをかけさせて……」
「そうですか、大変だったんですね……」
香川が考えに浸ると媛が次の質問をしてくれる、この点はふたり、絶妙のコンビなのだろう。
「えっと、パスツール医科大学付属高校って名門私立で学費もかなり、ですよね? 先ほどお情けでと仰いましたがどういうことでしょうか?」
母親は卓袱台に向けていた顔をゆっくり上げて答えた。
「小学校から特待生なんです、パスツール院の研究にご協力するという約束で。学費免除です……」
「そうでしたか……」
脳神経学科がてんかんの臨床例として囲ったってところか、と香川は判断し、深く追究することを控えた。
「亜里沙さんの親友と言ったら誰になりますか?」
香川が努めて明るく尋ねると、「笠岡美登利さんかと。境遇も似ていたので小学校から一緒で……」との答え。
「それは、笠岡さんも特待生、ということですか?」
「あ、はい。でもうちの子と違って、頭がいいから特待生なんだと思います。小さい頃からとっても優秀で。成績がいつも学年トップだと亜里沙は言っていました」
子供を失ったばかりの母親にこれ以上質問を続けるのも忍びない気がして、香川と媛は暇乞いした。
持病のてんかん発作を起こして喉に何か詰まらせたか、心臓に負担がかかり止まったか、という普通の結末が見えてきていた。
車の中から香川が担当監察医に電話すると、間延びした声が返ってきた。
「なあんだ、そうだったの、てんかんかあ。こればっかりはどっちが先かわからないからなあ」
「どっちが先って?」
「呼吸困難と心停止。てんかん患者さんには申し訳ないんだけど、あるんだ、SUDEPって呼ばれる原因不明の突然死」
「なら、三原亜里沙の死に事件性はないか?」
「いやあ、でもてんかん以外は健康な高校生だよねぇ。ちょっと痩せ気味だとは思うけど。そう簡単に死んでほしくはないなあ。発作連発して心臓弱ってたのかなあ?」
「いや、親御さんは、最近は倒れてないって言ってたが」
「生まれつき心臓が弱かったら、今回の発作で臨界点に達するってこともあるにはあるよね……そうは見えなかったけど、SUDEP、自律神経失調で肺が止まったり、脈拍が止まったりするからなあ、謎なんだよ、こっちは専門でもないし……」
「そうか……」
電話を切って運転席の媛に監察医の見解を話した。
「自然死みたいだな」と発言を終えると媛が首を傾げる。
「じゃあ誰が彼女の下着ずらしたんですか? 美術部員にネクロフィリアがいるとか? それとも福山は最後の思い出に中を見ようとか何かしようとでも……」
「自分の彼女が倒れてたんだぞ? 息があろうが無かろうが、すぐに救急車呼ぶだろう? 実際福山は119番してるんだし。何かするとか眺めるとかってお前の発想酷すぎないか?」
「香川さんは人の話を信じすぎます」
媛は怒ったように車を出した。不機嫌ながらも次の言葉を続けてくれて、香川としては少々安堵する。
「福山を自宅に帰す前に、3つだけ聞きたいことがあります」
「なんだ?」
もう事件は解決、事件などなかった気になっていた香川は、前を向いて運転する好きな女の横顔に見惚れた。
「福山くんは三原さんの持病を知っていたのか。なぜ『親友』に話を聞けと言ったのか。『女友達』とか『クラスメイト』ではなく、彼は『親友』と言ったんです。それから本に挟まれていた青い下敷きは三原さんのものか?」
「青い下敷きぃ?」
そんなものがどこから出てきたのか、香川にはてんでわからなかった。
青いもの、青いもの、と思い巡らしサングラスが目に浮かんだ。それは三原・母の話に出てきたんだった。そして……。
「もしかして、あの不道徳な本に挟んであったか?」
「はい。フランス語原書で、題名は『悪の華及び小散文詩集』です」
香川は「お前はやり手だが、今回は腕の見せ所はなさそうだぜ」と心の中に思って微笑んだ。
この時点では、捜査が迷走し苦汁を舐めることになるなどとは思ってもいなかったのだ。