それぞれの未来へ
笠岡美登利はそんじょそこらの高2女子じゃない。
上から目線も下手に出る必要もない。香川は自分そのものをぶつけるしかないとわかっている。
「教授を騙して一抜けたしたこと、なぜ三原亜里沙にも隠した?」
「亜里沙の人生を否定するような気がしたので。
人と違っているかどうかなんて関係ない、亜里沙は共感覚も含めて、自分の能力全てを使って芸術を生み出そうと目標を掲げた。
私は、利用されるのはもうたくさん、今のところ私の記憶法が役立つのは受験勉強くらいだからとりあえず吹聴する必要もない。立ち位置が違ってしまったんです。
大人になればもっと楽になるだろうし、わかってくれる人も出てくるかもしれない。例えば香川刑事のように」
と言って美登利が茶目っ気を見せる。
「それはお世辞だな。君は大丈夫なのか? 三原君を失って」
「大丈夫です。もう何もわからなかった幼い私じゃない。
実の母親でさえ自分をわかってくれないというのは確かに、性格をクラくしたかもしれません。それに今回は福山君にも頼ってしまって負担をかけた。
でも、何とかします。とりあえず、この記憶力を使って、亜里沙のことを書き留めておきたいんです。私の親友の人生をひとつ残らず。
その後のことは、自分で情報量を制御できるように、入ってしまったものは忘れる方向で善処します」
香川は「こまっしゃくれた言い草だ」と笑い飛ばしてやりたかったが無理だった。
小学校上がると同時に、悪くすれば物心ついた途端から無邪気な子供でいられなくなった彼女が抱えるものは、他人には想像がつかないほど大きい。
「すまないな、助けてやれなくて……」
香川の呟きに美登利は四度目に目を丸くした。
「私だけが特別なんじゃありません。みんなそれぞれ、いろいろ抱えてますよ?
世界は個人の感覚器官でしか知覚できません。自分が普通だと思っているだけです。
刑事さんと私の目に映るものが同じかどうかなんて、誰にもわからない。元より脳の中なんて……」
成績優秀過ぎる少女は、香川には思いもよらない、哲学書紛いの言葉を吐いた。
返答に窮したら、相手は容赦なく「失礼します」とだけ言って、背を向け歩き去った。
「この空が灰色に見えるのはオレだけってか。結局、事件はお宮入り、というか元より存在しなかったんだな……」
香川刑事は空を見上げてやるせなさに肩を落としていた。
ふと、後ろから妙に明るい声がした。
「先輩、もう浮気ですか~?」
「う、浮気ってなんだ?」
媛の恋愛モードに香川のほうが狼狽えた。
「JKに鼻の下伸ばして」
「お前、からかうなよ」
香川高知は普段の自分に戻って純粋に赤面していた。媛を前にすると実は、先輩面するだけで疲れる。
「相談があるんだ」
「何ですか? 美登利さんと今後も連絡取り合いたいとかじゃないでしょうね?」
「バカ、ちょっとは真面目に聞け」
顔色が戻る前に香川が吐き出すように告げると、媛は神妙過ぎる様子で黙りこくった。
「オレ、派出所勤務に戻って、いいか?」
「ふぇ?」
「刑事を辞めたい。今回のことで全く向いてないとよくわかった……」
返ってきた言葉はまるで、香川を叱っているかのようだ。
「何言ってんですか、先輩のほうがばっちり真相に肉薄したじゃないですか!」
「違うよ。あれで笠岡が本気でオレを騙そうとしてたら、オレにはどうしようもなかった。
彼女にはどちらの話も紡げた。
本を持ってきたことに悪意があったかどうかなんて、他人には決してわからないんだ。
オレは人が表に見せる気持ちに同調し過ぎる。
笠岡はオレには心を開いてくれた、と思いたいが、語ってくれたその全てが、作り話だっていう可能性だってあってしまうんだ。
殺人を扱うにはお前くらい相手を疑ってかかれないとダメだ……」
「私とコンビ解消したいってこと……? 無様なとこ見せたから?」
媛はもう涙の雫を落としそうに俯いてしまっている。
「違うって。お前は刑事として伸び伸びやってみろよ。お前の着想、筋道の立て方には目を瞠るものがある」
「バカにされてるようにしか聞こえない。私には人の心に迫る力がない……」
「迫らないほうが楽なこともある、刑事として上手く行くこともたくさんあるって言ってるんだ」
顔を上げた媛の瞳には案の定、涙が宿っていた。
「午前中のキスを無効にしたいんならはっきり言ってください!」
「違うって。オレはお前を支えたい。先輩刑事として隣でおろおろするよりも、少し距離を置いたほうがよさそうだ」
「離れたいんだ!」
「わからんヤツだな、最後まで言わせろ。うちでお前を待っていてやる。毎晩相談に乗ってやるから。何かあったらいつでも飛び出す。勤務先からでも家からでも。ふたりで前線に立つよりそのほうが絶対上手く行く。お前を家庭に入れようとは思わん。毎日オレのところに帰ってこい」
媛が何も言わない。
「わかったのか? オレはプロポーズしてんだぞ?」
「でも先輩のキャリアは……」
「その分お前が昇進しろ」
「えー?」
好きな女の声音が和らぎ、やっと香川は息がつけた。
「気が済むまでやってみろ」
「でも先輩のうち汚いって……」
媛の声は急にからかいの色を帯びる。
「そんなこと言ったか? 尼崎研究室よりきれいだ。そしてきっと、お前のワンルームマンションより片付いてる」
「見てきたみたいなことを……」
「うちに来い。いいな?」
「はい……」
肩を抱いたら媛が猫のようにすり寄った。
すると香川の脳内に、三原亜里沙が描こうとした「猫娘」、笠岡美登利のイメージが浮かび上がった。
「彼女の愛らしい瞳が映す時間というものは、常に同じで広大で荘厳。空間のように大きく、分や秒に分割されていない――その不動の時間は時計の上には刻まれていないのだが、ため息のように軽やかで、投げる視線のように素早い。……その時間とは<永遠>」
三原亜里沙は『パリの憂鬱』の中の詩『時計』のこの文言に、親友笠岡美登利の視覚能力を見たのだろう。
軽やかに投げかける一瞬の眼差しで、分割なく広大な空間を把握する素晴らしさ。
カメラのシャッターを押すように記憶してしまえるということは、時間制限が無いということ、彼女は「永遠」というものに肉薄しているのではないか。
そしていつも揺れながらも、倒れないその剛さ。
ぷいっとそっぽを向いても、自分を見捨てずまた戻ってきてくれる猫科の可愛さ。
怒らせてしまったからこっそり描いて美登利を驚かそうと思った。数えるほどしか大文字のない本文だ、油断してしまったのだろう。
大好きな美登利を描写したフランス語は、自分の目にはどう視えるのか。どんな形、どんな色をしているのか、下敷きを上げてその下を覗いた。
発作に繋がってしまったことは返す返すも、残念だ……。
媛を捕まえたまま香川は空を見やった。今度は陽も明るく心なしか青く輝いているように感じた。まるで亜里沙の下敷きを当てがったかのように。
©遥彼方さま
ー了ー
長らくお付き合いありがとうございました。
能力不足ばかり露呈した作品となりましたが、私の人生の集約のひとつになったかと思います。
「全く情熱が感じられない!」と先生には怒られましたが、私、先生とボードレール読むの楽しかったんです。ほんと、楽しかった。先生にはてんで追いつけなかったけれど、30年経ってやっとここまで来ました。
そして自分なりの解釈を大切なお友達に提示できることを嬉しく思います。
また、こんなチャンスを与えてくださった「イラストから物語企画」ご主催の遥彼方さま、本当にありがとうございました。