香川刑事にぶち壊せるのか?
美登利は鼻から大きく息を吸い込んで深呼吸をすると香川に尋ねた。
「亜里沙の青い下敷きに、私の指紋はなかったんですか?」
「あった、あったよ。もちろん」
媛が受けた。
「英語のノートを書いた時に付いたんでしょ」
「ちがう!」
「違うな……」
高2女子の若い声と香川の低い声が重なった。
美登利はまたも目を丸くして香川を見つめたが、言葉を発したのは香川のほうだった。
「綺麗にくっきり、親指と人差し指の横辺りが表裏のほとんど同じ位置にだった。君はかなりの力で下敷きをつまみ上げている」
香川はそこで美登利の瞳をじっと見つめた。
「怒ってはいた。かなり頭にはきていたから力が入った。確かにムカついたから君は原文を見せてやろうと思ったんだろう。でもその動機が違う。下敷き無しに見せるわけがない」
ふっと香川の顔に微笑みが浮かんだ。
「君がどれ程三原君を大事に思っているかをわからせたかったんだ。発作を起こさせたかったんじゃない。『後光喪失』は和訳にだってXとZの文字が使われている。へっぽこ詩人のなにがしという略称としてね。『ほら見てみなさいよ、もし原文で見たりしたらアンタは絶対倒れるんだからね! 私は堕天使だろうが失恋しようが構わない、アンタのことが心配なの!』そんな言葉を浴びせたんじゃないかな?」
「香川刑事……さん……」
美登利は初めて雄孔雀が羽を広げるところを見たような顔をしていた。
「先輩の顔は立ててあげたいけれど、一つ間違ってます。というか、大事な事実を無視している……」
媛が口惜しさよりも悲しさを込めて呟いた。
「下敷きは、『後光喪失』には挟まれていなかったのよ。あなたは英語のノートから下敷きをつまみ上げて、あの本に挟んだかもしれない。でもページが違う……」
「松山刑事のほうが間違ってます。亜里沙は私と一緒に見てましたから。確かに私はあの本を持ってきた。そして英語のノートから下敷きを移した。それは『後光喪失』の原文を亜里沙に見せるため。合っているのはそこだけです」
一息ついて、美登利が続ける。
「亜里沙相手に、怒りも悲しみも、負の感情を継続するほうが難しいんです。本を取りにほとんど駆け足で行きましたから、美術室に着くころにはもう気持ちのほうは落ち着いていました。私は本が好きだから、机に叩きつけたりしません。キャンバスに集中する亜里沙に振り向いてほしくて机を叩いたんだと思います」
「そのほうが君らしいな」
そう言ってしまってから香川は、自分が美登利の言葉を百パーセント信じ切っていないから出た言葉だと自覚した。
だがもう少しだ。香川のほうの推論を成立させるには、たった一つの要素が欠けているだけ。
「あなたと亜里沙さんは、青い下敷き越しに『後光喪失』を眺めたというの?」
「はい。香川刑事が言われたような言葉は浴びせたと思いますけど、亜里沙はパレットを置いて私の横に来て、『これは酷いねぇ』と笑ってました。笑ってたんです」
美登利の瞳には優しい色が浮かんだ。
「それを見たら私も、残ってたイラつきも消えてしまって、『エラリー・クィーンより悪い』ってジョークを言って」
「エラリー・クィーン?」
香川が学生時代女だと思い込んでいたミステリー作家の名前が出てきた。男どころか、作家ふたりの合作ペンネームだったはずだ。
「Xの悲劇、Yの悲劇、Zの悲劇……」
媛がミステリーのタイトルを羅列する。
間違っていると言われた後輩兼恋人の、精神的ダメージはさほどでもないのかと香川はホッとした。
「『図書館の推理ものの棚は背表紙並んでるだけで私にケンカ売ってる』って亜里沙が言ったことがあって……」
美登利は親友の言葉を思い出してまたしんみりした。
「でも亜里沙はどうして、福山君が来るのを待たずに下敷きを外してしまったの? 私言いました、これ半端じゃないから一人で視ちゃダメだって。本持ってていいから、一番いいのはお爺ちゃん先生のところで見ることだって。大発作が起こってしまったらできることはあまり無くても、ゆっくり呼吸するとか暗がりに横たわるとかで発作の程度を弱めることはできるって……」
「あなたの絵を早く描きたかったとか?」
「松山刑事、先ほど亜里沙の言葉、曲解されてましたよね……。
私たち、わかってもらえないのなんて慣れっこですけど、亜里沙のために訂正しておきます。
亜里沙は本気で、もう関わらなくてよくなるからよかったねって言ってくれてたんです。もっと明るくなってもいいだろうって。
亜里沙だって天使の輪っか外して普通に暮らせたらそのほうが楽だと思ってた。亜里沙の場合、経済的にも、絵の才能が認められたことでも、特別であることから逃れられなくなってた。
私はこの程度でしたって一抜けできたんです。それに対してやっかんでもいたからあんな言葉遣いになっただけです」
「君たちふたりには本当に、傍目にはわからない絆があったようだな」
香川が述懐すると思いもよらず、美登利が声を上げた。
「それで、刑事さん、なぜ亜里沙は死んだんですか? どうして発作起こしてしまったの? あの本のどこに、下敷きは挟まれてたんですか!?」
「ああ、それか。それが君の知りたかったことなんだな。そうか……」
香川は額に手をやって、答えるよりも前に美登利の行動原理に一本の筋が見えたことに感嘆していた。
媛が答えた。
「『時計』、ロルロージュに」
ガタン。
笠岡美登利がパイプ椅子を後ろに蹴とばして立ち上がった。
机の上に前のめりになって「どっち? どっちの『時計』ですか?!」と叫んだ。
媛は興味なさそうに「『後光喪失』を裸眼で視ようとして下敷きはどこでもいいから挟んだんじゃない? 冒頭じゃなく『時計』の途中ページだったわ」
「『時計』はふたつあるんです! ページ数でもいいから答えて。『悪の華』、『パリの憂鬱』どっちの『時計』なんですか!」
香川がそっと囁いた。
「『パリの憂鬱』、猫娘のくだりだ……」
美登利は口を手で押さえ、「亜里沙のバカ……」と呟くと涙が出る前に部屋を出ようと早々に暇乞いした。
「これで全部わかりました。ありがとうございました」
と、誰が誰を調べていたのかわからない言葉を残して。