松山媛の推論
媛は挑戦を受けて刑事手帳のページを繰ると、ゆっくりと話しだす。
「亜里沙さんが死んだ日も、あなたは英語のノートを作って美術室に向かった。入口で福山君とすれ違った。部屋に入って亜里沙さんの横の作業机の上にノートを置いた。下敷きはノートに挟んだまま」
「亜里沙さんは絵を自慢した。
『この絵に籠めた思いがわかる?』と訊かれたから『Love forever』と答えた。
亜里沙さんは幸せいっぱいに、『鞆旗は私の彼氏で正解!』と言った。この時にはあなたの気持ち、亜里沙さんにバレていたんじゃないの?」
美登利はすらりと答えた。
「略奪愛だって酷く噂になりましたから、亜里沙にも理解できたんでしょう」
香川が「君のことを脅威にも思っていた。取り戻されたくないっていう焦りもあったんじゃないか?」というと、美登利はただ肩を竦めた。
「亜里沙さんは尼崎教授の面談のことに話題を変えた。あなたはもう面談に来なくていい。『パリの憂鬱』の『後光喪失』の中の天使のように、せいせいした、きっと楽になれる、いいわね、もうムリすることもない。特待生喪失でも恋愛喪失でもあなたにぴったりだと。ひどい当てこすりだわ」
「亜里沙さんの態度にムカついて、あなたは部屋から飛び出した。そしておそらく自分の教室に置いてあったあの本を持って戻ってきた。天使面している亜里沙さんに、それほどいうなら原文を見せてやろうと思って」
「美術部員たちは作業机の上を平手でバンっと叩く音がしたと言ったけど違う。あなたは本を机に叩きつけた。『いい加減にしなさいよ、最近態度悪いよ!』と叫びながら。絵が受賞してからか、彼氏ができてからか、亜里沙さんはちょっと浮かれていたようね」
「ここから先は誰も目撃者がいない。あなたは原書の中の『後光喪失』を開いた。詩の最終行に、危険な文字が並んでいることを重々承知の上で。Pensez à X, ou à Z ! Hein ! comme ce sera drôle ! ここに並んだ大文字のP、X、Z、H、そしてびっくりマークはそれぞれ、亜里沙さんには何色に見えたの?」
「Pは空色。Xは眩しいスカーレット。Zはコバルトブルー、エクスクラメーションマークは赤橙色、Hはネイビー、そしてまた赤橙……」
笠岡美登利は大文字の羅列を憶えているらしい。
媛はここぞとばかりに押していく。
「附属病院のお爺ちゃん先生に聞いたわ。亜里沙さんはXとZが並ぶのを酷く嫌ったって。一番苦手とする色の配列は赤と青の点滅。この最終行は大文字だけでも最悪。亜里沙さんに青のサングラスや青い下敷きが必要なのも、色のスペクトラムを青側にずらして、点滅差を少なくさせるため」
媛が息を継ぐ間に美登利が指摘する。
「危険だと知っていることと、私が見せたかどうかということは、繋がりません。とっても飛躍してませんか?」
香川には彼女の声は全く落ち着いて聞こえた。しかし、頭が細かに揺れているのは、ショックを隠しているのか、それとも諦めにも似た絶望感を持て余しているのか。
「あなたは酷く、傷ついていたのでしょう?」
「だからといって?」
女二人がまたにらみ合う。
「あなたが6時ごろに美術室に戻ったのは、本を回収するためだったんじゃないの? それを福山君に阻まれた……」
「媛! そこまで根拠のない憶測を未成年に聞かせるか? いくら相手の許諾があったとしてもやり過ぎだ!」
香川の胸奥に怒りがふつふつと湧いた。これは普通の取り調べじゃない。
信頼している相棒で恋人だからこそ、許せないこともある。
「大丈夫です、刑事さん。えっと、香川刑事。そんなに子ども扱いしてくださらなくて……」
「君はもう普通なんだろう? 年相応に扱われたいんじゃないのか?」
笠岡美登利は虚を突かれたようにしばし香川を見つめた。それからゆっくりと、面白くないと書かれた媛の顔のほうに目を向けた。
「松山刑事は根本的に間違っています。私と亜里沙の関係がわかっていません。
小学校上がった途端に、私たちは尼崎教授のあの部屋で引き合わされた。
亜里沙のお母さんは女手一つだから働かなきゃいけないんです。だから教授が亜里沙の能力テストをしたかったら、誰か他の保護者に付き添ってもらわなくちゃならない。教授にとって都合がよかったのは、同い年の私がいたことです。IQがちょっとよくて研究対象にすると言えた。
亜里沙のテストにはうちの母と私が同行した。
あなたたちにわかりますか?
小学生の女子ふたりの前に白衣をきた大人たちが入れ代わり立ち代わり現れて、『すごい』とか『不思議だ』とか言って去っていく。私の母は少し離れて座っているか、隣の部屋で待っていることもありました。
似たようなテストを何度も何度も受けさされる。嫌だと言える雰囲気でもない。周りはみんなお医者さんみたいだし、自分はどこかおかしいらしいと子供心に思い込んでしまう。何が起こっているのか誰も説明してくれない。
私はずうっと亜里沙と手を繋いでいた。疲れるとだんだん震えてきて、発作を起こしそうになるのがわかるんです。それを止めたかったから私は絶対手を離さなかった。予兆が来たら、自分が泣きわめいてもだだを捏ねてもテストをやめさせようとした。
そんな絆なんです。好きとか嫌いとか彼氏取られたとか、そんなこと、たいした問題じゃない。私たちは、お互いにしか言えないことがたくさんたくさんあったんです」
「だからこそ、じゃないの? 家族の中に愛憎が過激に渦巻くように、あなたと亜里沙さんの間は好きも嫌いもメーターが振り切れてしまう……」
笠岡美登利は伏し目になって固まった。
みなさま、誤字報告ありがとうございます。
老眼きつくなってきてること、急いで書いていること、相まっていつもよりボロボロです!
お世話になってます。ありがとうございます。