張り込みの車中にて
香川は昨夜思い描いた感傷を悔やんでいた。
「助手席に媛がいてほしい」という。
一夜明けてまだ午前10時半だというのに、いつもより厚化粧の媛は運転席の香川にべったり貼りついている。細い右腕を絡みつかせ体重を預けると、香川の無骨な左手を両手で弄びだした。
「おい、そこまでやれって言われてない……」
「面が割れそうになったらキスでもして誤魔化せって指示です。これくらい我慢してください」
恋する少女のように目を輝かせておいて、愛らしい唇は事務的な言葉を容赦なく吐いた。
張り込み中だ。別の事件の容疑者の出没情報があり、まだ眠たそうな場末の「夜の街」の片隅に車を停めている。
「あ、人が近づいてきます」
媛は両腕を香川の首に廻した。焦りまくった香川だが、媛が額を肩口につけ俯いてくれてホッとする。ホッとした途端爆弾発言がきた。
「無理なんです……」
「何がだ?」
オレとのキスがだろうかと思ってしまう香川は純情派なのだろう。
「美登利が美術室から大学図書館に行って本を借りること……」
媛の口から洩れたのは、捜査とはもう呼べない昨日の調べ物の報告らしかった。
「片道8分、書棚から本を抜き出して戻るのがやっと。美術部員3人組は片付け中だった。美登利は片付けが済む前に戻ってきてる。だべりながらのろのろ片付けても20分でしょう。あの本が図書館のどの棚、どの位置にあるかバッチリ知っていたとしても間に合うとは思えない……」
「貸出記録は?」
「コンピューターには何も。高校生の図書カードでは大学の本は借りられない」
「まあ、そうだろうな」
香川の目だけは、フロントガラスの角から見える監視対象のバーの裏口をちらちらと眺めていた。
いつも車内にうっすらと漂う媛の髪の匂いが今日は近すぎる、胸元で圧倒的に香った。
媛はそんなこと意にも介さず話を続ける。
「『悪の華』を借りたのは尼崎研究室になってました……」
「心理学教授か」
香川の『医科大の陰謀』説が息を吹き返しそうだ。媛にはバカにされたんだったな、と苦笑した。
「それも困ったことに、先生方の研究室が借りるものはコンピューター管理されていない。ノートに手書きなんです」
「てがき?」
「貸出期限もない。教授が図書館に来て『これ使うから』と申告、それを貸出帳に書き込むだけ」
「杜撰だなあ」
「はい。実際に図書館に来る人は、教授本人でなくてもいい。助手とかゼミ生の場合もある。ノートへの書き込みも司書を通していると限らない。貸出期限がないから、貸出日も必要ない、ノートは記入漏れだらけ……」
「そのうえ、尼崎研究室は、蔵書を失くすブラックホールだと呼ばれてもいて」
「ああ、あの部屋はオレんちより汚かった」
媛の髪が揺れ香川の首筋をくすぐった。
「それで、研究室にあったとしたら、美登利は当日、取りにいけたのか?」
「研究室は5階。図書館は1階。高校からなら図書館のほうが近い……」
そういえば自分たちは病院の3階から渡り廊下を使ったんだと香川は思い出す。
「困ってるんです……」
媛が情けない声を出す。香川に慰めてもらいたくて抱きついているのかと信じたくなるほどに。
「どうして、だ……?」
自分の声が思いのほか甘く響いて香川は赤面しかける。
「気付いてしまったから……。もし本当だったら許せそうにない。法には問えないんだろうけれど……」
ハンドルの輪下辺りに所在なくぶら下げていた香川の右手が媛の頭に伸びた。考える間もなく、止める余裕もなく、髪に指を滑り込ませ、愛しい頭を抱きかかえていた。
「計画的犯行……か?」
「はい……、いつ殺せるか未定の気長な殺人。相手の身体が堪えられなくなったところで達成される排除劇……」
「妻が浮気者の高血圧な夫に塩加減たっぷりの食事を用意し続けるみたいにな」
その可能性を香川も考えていなかったわけではない。
「だが、それを追及してもし間違えると、一人の少女の人生を狂わせる」
「弱点を持った一人の少女が殺されてしまっているとしたら?」
香川は後輩の頭をくしゃっと撫でた。
「慎重にいくと約束するなら、同席してやる。ご葬儀の後、気持ちも落ち着いているようならもう一度あの派出所に来てもらおう」
媛は香川の胸に向かって頷いた。
「オレがその懸念、ぶち壊してやるから」
香川が珍しく断言すると媛が「ほえ?」と顔を上げた。
いつもよりこってり作られた化粧顔に紅い唇が怪しい。
それには全く似合わない間の抜けた無防備さに、香川はそっとキスしてしまっていた。