好きな女を本気で愛する男同士の話
もう夕方6時過ぎていた。香川は横に媛を乗せてパスツール院医科大学経由、福山の家へ向かった。大学図書館が何時まで開いているのかしらないが、媛はあちこち電話をかけてだんどりつけたようで、手を振って別れた。
福山内科医院の敷地に車を停め、香川は母屋へ向かう。
予想に反して、福山鞆旗がすぐに出てきて自室へと案内した。入る前に「いいのか?」と香川が尋ねると、「男同士の話なんでしょう?」と返ってきた。
「ああ、好きな女を本気で愛する男同士の話だ……」
香川は自分に言い聞かせるように首肯した。
ベッドと机があってもゆったりと広い、部屋の真ん中に敷かれたラグの上に、向かい合って座り込んだ。
鞆旗の目には少し生気が戻ったようで、
「どこまでわかりましたか?」
と訊いてきた。
「残念ながら、死因は殺人じゃない。今日ここに来たのも捜査ではなくて、上からは早く次の仕事をしろと言われて、実は始末書ものだ。それでもいったい何が起こったのか、個人的に、君たちのことがわかりたくて……」
刑事という肩書を外すと香川は、30代、お人よしのお兄さんに成り下がる。
殺人事件として扱えないと言ったらまた黙秘だろうかと思うと輪をかけて、態度が下手になった。
「本題に入る前に相棒に頼まれててな、ひとつ教えてくれ。三原亜里沙がたったひとりの時には、英語の本、フランス語でもだが、開くなって言い渡してただろう?」
「はい……」
「それが絵を描くためでも」
「いつでもどこでも、必要ならラインで僕を呼べと言ってありました」
「だよな……」
男同士というのは、どうもぽつりぽつりと会話が進み、間が空きがちだ。
「じゃあ、やっぱり……」
「何だ?」
「僕を呼んでくれなかったんですね? 誰かが無理やり見せたわけじゃない。亜里沙が自分でアルファベットを見た。絵を描くためには、下敷き外して色を視るから危ないんです。わかっていたのに……。のほほんと将棋などせずに、あの場にいたら助けられたんだ……」
鞆旗の姿勢が崩れて体育座りに変わる。膝の間に顔を隠したいのかもしれない。
「君はオレらにそこんとこをはっきりさせてほしかった。だから殺人事件だと言い張った」
「はい、亜里沙が僕を頼ってくれなかったのかどうかが一番知りたかった。あとそれから、救急車を呼んだら、変死として警察が介入するってこともわかってませんでした。でもあの状態では判断できなかった。後から思えば、附属病院の先生に電話すればよかった……」
「明日はご葬儀だね……」と香川が呟くと、部屋の主は膝に向かって頷いた。
「将棋部から美術室に戻った君は、三原さんが倒れているのを見つけた。すぐ駆け寄って側臥、リカバリーポジションに置いた。でももう彼女は事切れていた……」
「身体があんなに冷たくなるものだとは知りませんでした……」
鞆旗は両膝を抱えた姿からゆっくりと首だけ上げて、ベッドの下の闇をみているようだ。
「君は119番した。それは正しい判断だ。後悔しなくていい。救急隊員に人工呼吸も心臓マッサージも手遅れだと言われた。これは録音が残っている」
相手が無言なのを見て取って、香川は自分の頬が紅潮しないことを祈りながら続けた。
「君は上から覆いかぶさるように彼女を抱き締めた。せめて救急車が来て三原さんを連れていくまで腕の中に置いておきたいと……そして首筋に顔を埋めた。側臥ではそれが一番自然だ。実はね、君の頭髪が三原さんの首に貼りついていたんだよ。もしかしたら君の涙でついたのかもしれない……」
「亜里沙の口を拭うなと言われてしまったんです。救急車到着まで動かすな、そのままにしろと。だからキスしたくてもできなかった……」
「そうだろうな」
堂々と自分の恋路を語る高校生を眩しくも思いながら香川は一歩核心に触れる。
「だが君はひとつ気がついた」
「いえ、亜里沙に頼まれていたんです」
「頼まれて?」
「はい。それを思い出してしまった。抱き締めているだけじゃいけないと」
香川は自分の知識から選りすぐった推論を鞆旗に告げた。
「彼女の発作はかなり激しい全身痙攣で……失禁を伴うものだった……」
鞆旗は肯定も否定もせずにしばし沈黙してから、ゆっくりと口を開いた。
「人によっては大丈夫らしいんですが、残念ながら亜里沙は……。だから発作のときは絶対下着を着替えさせてくれと何度も何度も頼まれていた。彼女は僕に、スペアの下着を持たせていたんです。男子高校生の学生鞄に入れるものじゃないと最初は断っていたんですが……」
「死に至ることもあるというのに、年頃の女の子はそんなことが気になるのか?」
若者は香川の発言にカチンときたのか、早口になった。
「なりますよ。父に頼んでてんかん大発作の資料映像を見せてもらったんです。発作なんて目にすることないじゃないですか、てんかん患者さんってすごい数いるのに……。身体中ガクンガクン波打って、見ていられるものじゃない。発作だけでも人目に晒したくないと思う上に下着が濡れるとなると、引きこもりになったって僕は責められない……」
そういえば内科医なら全く知識がないわけでもない。常用薬の処方ならできるんだったか。
「君の言う通りだな。医者の卵の言葉だ……だが、君の黙秘もこのせいだ」
少しばかりお灸をすえておこうと香川は顔を顰めて話した。
「はい、徒に亜里沙の病状、本人は体質と呼んでいましたが、それを吹聴する必要はない。本人が知られたくないと思うなら隠せばいい、僕だけが知っていればいいことです」
「そしてその酷い発作を目撃したとしても、君の恋は冷めはしない」
「そんなの、当たり前じゃないですか? 亜里沙がいなくなっても僕は焦がれているのだから」
光がうっすらと宿る鞆旗の瞳は若者らしいものに戻ってきていた。
「君は男前すぎる。もし服毒死だったら容疑者になっていたかもしれないというのに」
「そうですね、この家にも隣の医院にも、人を殺せる医薬品がいくらでもある」
「おいおい、いくら本当のことでも、刑事相手に軽々と言ってのけないでくれ」
鞆旗は肩を竦めて口角をほんの少し上げた。これが今できる笑顔の最大限なのだろう。
柔らかい空気が鞆旗の部屋の中には流れていた。だが、本題はこれからだ。
12月16日中にも終わりそうにありません。ごめんなさい!