笠岡美登利のアリバイは無い
「どこにあるのかわからなくて手間取っちゃったわ」
媛が湯呑を載せた盆を持って現れた。
香川はふーふー吹いてから口をつけてみて、「なんだ、かなり温いじゃないか?」と笑った。
「お茶は温めがおいしいんです」と開き直る媛を置いて、香川は質問に戻った。
「あの日、キレちゃったって言ったな? 一旦美術室を出て、でも君は戻ってきた。どうしてだったんだい?」
「ムシャクシャして、今日こそは一言言ってやろうと思ったから」
「ケンカは長く続いた?」
「亜里沙とはケンカにはならないんです。飄々としていて、あっちが言いたいことだけ言って、私が我慢するかキレるかで。いつもなら次の日の朝一緒に登校してそれでまた元通り……」
女の子同士の友情というものは、香川には想像するしかない。
「それじゃ、君のほうが随分ストレス溜め込んでたんだ?」
「溜め込んでも仕方ない、ちょっと距離置いて頭冷やして、です。亜里沙の性格は子供のころから一緒です。私もですけど」
「取っ組み合いとかしたことは?」
「ないですよ。もしかしたら勝てたかもしれないな。私のほうが小柄ですが亜里沙、ひょろひょろだから」
そこで美登利は親友を思い出したように、湯呑を両手で握り込んだ。
「あの日、何時ごろ帰った?」
「言いたいこと言ってすっきりしたから5時前には学校を出ました」
「それを証明してくれる人は……?」
「私のアリバイ、ですか?! 刑事さんたち私を疑ってるんだ?」
香川にはわざとらしい反応だと感じられたが、媛は「まあまあ」と割って入った。
「一応聞いておこうってことよ、この頼りない先輩のね。それに、福山君がね、もしかして将棋部から美術室に一度戻ってないかなって気になってて……」
「福山君が様子見に来てくれてたら、亜里沙は死んでないです……」
「その通りよね。で、美登利さんは独りで下校して、誰にも会ってないのね?」
「誰にも……。家にも母、まだ帰ってませんでしたし……」
「そう、わかったわ。えっと、あとひとつだけかな、質問があるんだ」
「何でしょうか?」
「あの日、英語のノート作ってるとき、青い下敷きはしてた?」
「下敷き? 亜里沙の下敷きですか? たぶん、ああ、英語のノートに挟んで渡してきたので、そのままでした」
「じゃあ、三原さんにノートを返した時にはそこにあった」
「はい、きっと……」
「私たちが現場に行った時には、フランス語の本に挟んであったの」
「亜里沙、読もうとしたんですね……」
「三原君はフランス語もできるのか?」
香川が驚くと媛からまたジト目が返ってきた。
「できる必要ないです。視てみようとしたんでしょ? 『後光喪失』という詩の原文を。何色に見えるかどんな形なのか知りたくて」
「あ、そうか、できなくていいんだ」
香川が納得すると、「ほんと、困った先輩でしょー?」とまた女同士で顔を見合わせている。香川は減点を挽回するように言葉を続けた。
「三原君が絵を描いて君にあげると言っていたんだな。天使が輪っかを落っことす話だったか?」
「そうですよ。輪っかを落っことしたけど、せいせいするよ、天使なんてもううんざりだったんだ。それに一般人が輪っか見つけて天使の振りでもしたら、可笑しいだろ?っていう諷刺です」
媛がまくし立て、「ねー?」と美登利に同意を促す。
美登利は曖昧に頷いた。
「じゃ、長らく時間とってごめんなさいね。気を落とさず、明日のお葬式は友人代表をしっかり務めて……」
「はい……」
「私たちはもう少し調べて、三原さんの身に何が起こったのかわかったら知らせるわね」
「よろしくお願いします。では、失礼します……」
笠岡美登利が席を立ち、部屋のドアを開けたところで媛が呼び止めた。
香川は、おいおい、それは刑事コロ〇ボの手法だろうと頭の中で突っ込んだのだが。
「そうそう、ボードレールの『小散文詩集』、和訳は『パリの憂鬱』ってタイトルになってるのが多いけどどっちが本当なの?」
美登利は身体を振り向けて首を傾げる。
「どっちもだと思いますよ? 『悪の華』の中にも憂鬱とかパリとかがいっぱい出てくるからボードレール本人が区別のために、『パリの憂鬱(散文詩のほう)』とかって呼んでたらしいです」
「そうなの? ありがとう。人生の一つの謎が解けたわ」
媛はにっこり笑って女子高生を送り出した。