英語のノートとイーゼルの絵の謎
媛と笠岡美登利の、尋問ではない会話が続いていた。
「三原さんの英語のノート、大変だったね」
「いえ、あれはそんなことないです」
「投げ出したくてもできなかった?」
「そりゃ、亜里沙がバカなことを言って突っかかってくる度に、今度こそ止めようって思いましたけど……」
「あなたにしかできないことだものね?」
「え? ただの板書じゃないのか?」
香川が思わず声を上げると媛からジト目が返ってきた。
「先輩、大学病院まで行って何聞いてこられたんですか」
媛の声が冷たい。
「もしくは、現場にあった証拠物件なのに中を見なかったんですか?」
「三原亜里沙の英語のノートだなって」
媛はとうとう笑い出し、美登利に「こんな人が私の先輩なのよ~」とヘルプを求めている。
「お互い、苦労しますね」
美登利は笑おうとして笑えなかったようだ。
「中身は全部、日本語だった。アルファベットは新しく出てきた単語ほんのちょっとだけ。I love youという文章だとすると、私・愛・あなたと書き換えた。高2にもなると文法がどんどん難しくなって、例えばI am not your mother who looks after you every second.だとすると、私・です・違う・あなたの・母親・誰・見る・後・あなた・毎・秒」
「それじゃ何のことかわからん」
「わからないから美登利さんは説明をもっと付け加えた。誰=関係代名詞主語、見る・後=後見、面倒をみる。ふたりの今までの積み重ねがあったから、可能だった」
「亜里沙は英会話は結構できたんです。耳で聞く音主体にして。だから私・です・違うと並べばI am notのことだと分かってました。アルファベットを見なくても、自分の頭で変換し直して、ああ、関係代名詞ってものがあって、whoで人の説明ができるんだなって理解する頭のいい子だったんです」
「すごいよね、ふたりとも」
媛が手放しに褒める。
「英語の書かれない英語のノートだったわけだ」
「そうです、先輩、その通り! それも三原さんにとってアルファベットがどれだけ危険か知っている美登利さんだからこそ、ここまで時間と労力を割いて作り上げてきた」
香川の刑事アンテナがぴこんと受信した。
媛は美登利を疑っている。
美登利なら三原亜里沙にどれほどのアルファベットを見せつければ体調を崩すか、把握していたはずだ。小学校から一緒の、仲良し親友同士として。
死ぬか死なないかは別として、少なくとも発作を起こさせることはできた。
でも、どうやって?
英語のノートのあの日のページはすべてアルファベットだったとか。
それともフランス語の詩集のほうか?
でも美術部員が言っていたのは、「三原亜里沙のほうが面白い詩を見つけたから、それを題材に絵を描く」、じゃなかったか?
あの詩集は参考資料として、三原が借りた本だろう。三原の下敷きが挟んであったんだから。
媛は核心には触れず、美術部員の雑談のほうに話を戻す。
「ふたりの間には英語を日本語表記する暗号があったってことよね? でもそれは一つじゃない。美登利さん、あなたは三原さんが描く絵の意味を読み取れた……」
「暗号、だなんてそんな大それたものじゃないんです。亜里沙だって絵の新人賞をとっても『こう見えるからこう描いてるだけなんだけどなー』なんて言ってました。別にキュービズムとか表現主義とか、抽象画の新理論を確立したわけじゃないって」
「でも従来の画壇から見るとあまりに奔放であまりに美しい。亜里沙さんの想いが、色や形を通して観る人の心に届いてしまうから、評価された」
「その通りです、素敵でしょ?」
「三原さんが福山君にと描いたあの絵は “Love forever”。あなたにはどんな風に見えるの?」
「え? 私にですか? 見たままですけど?」
媛は美登利の特殊技能を探ろうとしているのか、と香川は思い至る。ならここは自分がボケをかますところだろうと、発言してみた。
「あれは最近流行りのドリーミーユニコーンに見えたぞ? うちの姪のお気に入りだ」
クスッと笠岡美登利から笑いが洩れた。それだけで香川のボケは成功だろう。
「foreverって馬が駆けてる姿なんですって。Loveを普通の人はハート型で表すけど、亜里沙にはLは稲妻、Oは六芒星、Vは風 Eは霧、そんな風に文字ひとつずつに形と色が見えて、組み合わせるとその単語がもたらすイメージも感じる。言葉で説明するの難しいですけど、こんな感じなんだと私は理解してました」
「でもあなたはパッと見で読み取れるのでしょう?」
「色がもうそうなってましたから……」
「三原君に見える、アルファベット26文字それぞれの色を憶えているってことか?」
香川は一応会話に参加してみた。
「あ、はい、ちっちゃい頃から散々聞かされたので、憶えちゃいました」
この底の知れない女子高生は何を考えていて何を感じてここにいるのだろうか?
©遥彼方さま




